冷瑞葵

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コーヒーが冷めないうちに

 飲食物は冷めてしまっては美味しさが半減するという前提のもとに成り立っている台詞だ。私は猫舌なので、その言葉を聞くとつい反発したくなってしまう。熱いと味もよくわからないし、おそるおそる飲むから楽しくない。何より口の中を火傷してしまうんです。ぬるくなってからのほうが柔らかい本来の風味を味わえると思うんです。
 それでも冷めないうちに飲んでほしい? そう。その言葉の裏は?
 最初は親切心から来る言葉だと思った。悪く言うのならばお節介。他のことに気を配らずどうぞ美味しいコーヒーを味わってくださいという、こちらを慮った台詞だと考えるのは自然なことだ。
 でもどうやらそうではないらしい。改めて彼を見ると眼光鋭く飢えた獣のようにこちらを見据えている。自分の最上の作品を相手に味わってもらわなければ作者としての自分は息絶えると言わんばかりに。共感はできかねるが悪いことをしたとも思う。
 コーヒーカップが唇に当たる。熱い。恐怖と焦りが味覚を覆い隠す。こうまでして熱いものを飲ませる必要がどこにある?
 そこでふと恐ろしい仮説が浮かぶ。ただの妄想だ。例えば、高温下で作用する毒物が入っている。例えば、時間経過で作用が低下する薬が入っているからなるべく早く飲んでほしい。そんなはずないとわかっていても一度被害妄想に囚われてしまうと抜け出すのは難しい。静かにカップをテーブルに戻す。
「すみません、失礼します」
 代金は支払う。文句は無いだろう。
 そう内心毒づいて差し出したお札は拒まれた。制するように差し出された手のひらは、続いて黙って扉を指し示す。そう言うなら、お言葉に甘えて。こちらも黙って外への一歩を踏み出す。
「ただ早く帰ってほしかっただけですよ」
 背中から声がかけられる。あらぬ疑いを掛けられたことに対する静かな怒りが感じられる。
「終わりの日を見知らぬ他人と過ごしたくはありませんので」
 遠くの地面が輝いている。冷気が頬を撫でる。鏡のように光る地面に季節外れの雪が降り積もる。氷の膜は大きな生き物のように這いつくばい近づいてくる。なんだそれ、だったら最後に熱さというものを味わっておいてもよかった、と後悔する後ろで食器を洗う音がする。
 唇を軽く舐める。少しヒリヒリして、軽度の熱傷を受けていたのだと気づいた。

9/27/2025, 5:28:48 AM