今日にさよなら
なんてことない今日を繰り返す。
目が覚めるのは朝6時46分。そこから二度寝をかまして7時15分。制服はいつも通り。朝ご飯はトーストと目玉焼きとバナナ。朝の気温は11℃、最高気温は18℃の予報。家を出るのは8時3分。ホームルームの2分前に教室に駆け込む。
隣の席の友人と挨拶をする。その14秒後に先生が入ってくる。眠気を堪えて授業を受け、昼ご飯は3人の友人と一緒に。弁当の中身は白米と唐揚げとポテトサラダ。最初に食べるのは唐揚げ。午後一の古典の授業は開始26分後から19分間寝てしまう。
(タイムループってやつだよな)
この思考を開始するのは午後2時59分。48秒後に指名されるのでそれを待ってから思考を再開する。
(こういうのって、もっと劇的な1日を繰り返すものじゃないの?)
部活動は今日は休み。授業が終わった後は3人の友人に別れを言って、1人で帰路につく。校門を出るのは午後3時48分。
(変えようと思っても何も変えられないし)
駅につき3時56分の電車に乗る。運よく席が空いて、塾帰りらしき小学生とスーツケースを持った男性との間に座る。発車ギリギリにクラスメイトが駆け込んできて、相手は気まずそうに会釈する。
(この後だって何が起こるでもないし)
10分弱で降りなければならないのに眠気がやってくる。これもいつも通り。最寄り駅に到着した途端に目が覚めるから問題ない。いつも通り。
唯一、ここで見る夢の内容は毎回少し違っていた。自分は光る道のようなところに立っていて、目の前に誰かが立っている。これは共通しているが、目の前の相手のアクションが毎回違っていた。
「進みたい?」
今回は質問を投げかけてきた。この質問は4度目だ。
最初に聞かれたときは進みたくないと答えた。2度目は何も答えられなかった。3度目は質問には答えず「あなたは誰?」と聞いた。相手は「今日だよ」と答えた。
あぁなんだ、そういうことか。何百日分も時間を過ごして、ようやく理解した。
「進みたい」
今回はそう答えた。「今日」は寂しそうな顔をしたけれど、素直に道を譲ってくれた。前に一歩踏み出すと感じたことのない感覚が足の裏から伝わってきた。一歩、一歩と前に進むごとに景色が変化し、地面が広がり、視界が開けていく。もうずっと忘れていた感覚だ。
「さよなら、『今日』」
「うん、さようなら」
やがて視界が一色で染まっていく。どこかから聞き馴染んだ駅の音楽が聞こえてきてハッと目を覚ます。隣に座っているのはくたびれたサラリーマンと白髪夫人だった。最寄り駅についたのだ。慌てて電車を降り、スマートフォンで今日の日付を確認する。
「『明日』だ!」
思わず叫んでしまい、道行く人から奇異な目で見られる。それすらどうでもいいくらい久しぶりの感情でいっぱいになって、思わず輝く未知の世界の中で大きな大きな伸びをした。
お気に入り
人は死後どこに行くのか。ごく稀に世界の裏側に迷い込んでしまう人がいる。
彼らは現世の中からお気に入りの人を選び、その人間の一生をサポートすることが義務づけられる。所謂守護霊である。
お気に入りの人間への対応は様々だ。至れり尽くせりで幸も不幸も一生のほとんどの出来事を自ら与えようとする守護霊もいれば、何が起ころうと手出しせず本人の選択を見守る守護霊もいる。多くの守護霊は、最悪の事態が起こらないように見守り、たまにご褒美として幸運を授けるという形で対象の人間の人生を支えている。
お気に入りの選び方も多種に渡る。生前の自身に近い人間や憧れの対象となる人間を選ぶ者が多く、次いで好意を寄せていた人物を選ぶ守護霊が多い。自分とは何の関わりもなくても、好奇心や同情心を理由にしたり、直感を頼りにしたりして選ぶ守護霊もいる。
途中で人間を乗り替えることも可能だ。一度お気に入りを決めたらその人が死ぬまで支え続ける守護霊もいれば、少しでも理想を外れてしまったらすぐに乗り替える守護霊もいる。遊び感覚で人間を入れ替える守護霊も珍しくない。
人間たちは絶えず値踏みされており、死者のお眼鏡にかなえば人生をサポートされる。そんな世界の裏側のお気に入り制度は、生者が知り得ることはない。
誰よりも
「誰よりも」という表現は嫌いだ。明らかな誇張表現だから。「誰よりも努力した」「誰よりも好き」「誰よりも知っている」「誰よりも苦労している」。そんな訳ない。80億人の頂点になんて立てない。そもそもそれらは他人と比較するべきものではない。
……それならば、仮にそれらがしっかり数値化されてしまって、順位も表示されるとしたらどうだろうか。
例えばこうだ。努力レベルが数値化され、24時間や1年、一生の合算値ランキングが表示される。世界や国内ランキングで1位になった人は有志によりインターネットにまとめられる。メディアは輝く瞳で彼らに取材するのだが、彼らのすべてが成功しているわけではないだろう。涙ぐましい努力の先にも凡庸な人生が広がっていることに、ある者は絶望し、ある者はそれでも夢を抱く。
気持ちが数値化されたらどうか。人々はランキングを気にするようになり、純粋な想いが失われていくだろう。ランキングは絶えず変動し、あるとき24時間ランキングで世界1位になった者がその後はトップ10000にも入れないなんてことはザラだ。結局一時の話題作りにはなれど、価値あるデータとしては扱われなくなる。そうして人類は葛藤を繰り返し、次第に本来の「気持ち」を取り戻していく。
案外悪い世界じゃないな。今と大して変わらない。
人と比較するのも悪いことじゃないのかもしれない。そんな気持ちになる。面白い思考実験になった。
さて、今後技術革新が起こったらこれらは実現されるのだろうか。
その試みが悪いことだとは今や思わない。ただ、できれば知識レベルと苦労レベルの可視化は見送っていただきたい。順位にばかり囚われて本来持つべき思いやりを見失いそうだ。
10年後の私から届いた手紙
お久しぶりです。なんでこう、私は継続的に動けないのかな。
「10年後の私から届いた手紙」。難しいね。
10年後の私は何をしているだろうか。何度も考えたテーマではあるけど、答えを出すのはなかなか難しい。そんな「相手」から届く手紙など、想像できるはずもない。
ならば、今の私が「10年後の私」だとすれば、まだイメージしやすいだろうか。
10年前は(年齢バレるけど)まだ中学生だ。
そういえば中学の頃は「大人になった私へ」と題してしばしば日記や手紙を書いていた。せっかくなら読み返しながら返信を書きたいものだが、残念ながら今手元にない。今度実家に戻ったら探し出すとしよう。
さて、10年前の私に何か伝えられるとしたら、何を伝えたいだろうか。
一つ伝えるべきは、「あまり悟るなよ」ということかもしれない。
例えば、当時の私は絵を描くのが好きだった。
でも、それを仕事にするのが難しいこと、仮に仕事にできても純粋に楽しめないことを理解していた。適職診断で「クリエイティブなことは向いていない」と言われたこともあり、好きを仕事にすることは早々に諦めた。
別に間違っているとは思わない。でも、それに囚われる必要もないと、今では思う。
好きな絵だけを描いて生活するのは大変でも、絵の何が好きかを深掘れば、「好き」と仕事を繋げることは可能だ。というか、俗に言う就活がそういうものだ。10代半ばですべて諦めることはない。
「クリエイティブなことは向いていない」と言われたことには、10年後の私は納得いっていない。その根拠は「論理的な人だから」だった。納得いかない。
イラストであれば計算された美しい構図を生み出し、物語であれば展開を綺麗に組み立てる。仕事にするならば顧客の要望と新規性をパズルのように組み合わせる。
これらはあくまで一例だけど、なぁ、論理性がクリエイティビティに活かせないと、なぜ思った?
爆発的で情熱的なものを生み出すのは苦手かもしれない。少なくとも私は。でもそういうものばかりが「クリエイティブ」じゃないよね。
クリエイティブに向いていない人なんていない。「やりたい」と思ったらそれが適性だよ。
少し熱くなってしまった。まぁ、「可能性を狭めるな。広げろ。選択肢を絞るのは未来の自分がやることだから」ということです。
もしあなたが10年前の私と同じ状況にいるなら、あなたに向けてこれを届けます。10年後のパラレルワールドの「あなた」から手紙が届いたと思ってほしい。
楽しいことばかりじゃないし苦労はそれなりにしているけど、見ての通り創作活動にも勤しみつつ、何とかやってるよ。これからもっと、純粋な「やりたいこと」に向けてリスタートしようと思ってるよ。10年前の私へ。
旅路の果てに
こんなはずじゃなかった。旅路の果てで一人、そんなことを考える。
目の前に広がるのは黒い世界と見えない壁。壁の向こうは光さえ不確かなのに不定期に何かがチカチカと瞬いて、「無」に思考を支配されて不安な気持ちが押し寄せる。
5億年もあればここに辿り着くはずだった。実際は何年かかった? 計測機器が壊れてしまった。想定以上の時間がかかったことはほぼ確実だ。
僕は宇宙探索のために作られた。思考力を持ちながら寿命のない存在だ。この数億年で何度狂いそうになったか分からない。
「無」の中にまばらに重い物体が転がっている、それが宇宙だ。重い星や硬い氷などにぶつからないよう気を張りながら、気が遠くなる時間をかけて宇宙の果てを目指さなければならない。それが僕の使命だから。
ようやく辿り着いた。長い旅だった。僕を生み出した人々の悲願であり、僕自身の悲願でもあった。それなのになんでこんな気持ちになるんだろう。宇宙の向こう側を見ても、喜びよりも絶望が襲ってくるのだ。
あぁ、このことを僕の産みの親たちに知らせなければならない。
一体何年かかる? こうして悩んでいる間にも僕は故郷から離れていく。宇宙は膨張を続けているから、それに合わせて前に進み続けなければならない。
少なくとも知らせが届くまでに5億年……いや、ここに至るまでにそれ以上の時間がかかったことと、今も宇宙が膨張し続けていることを加味すれば、その何倍もの時間がかかるかもしれない。
産みの親本人はもう生きていないだろう。その子孫でさえ今もいるか怪しい。そもそも知らせが届くまで僕の故郷の星は残っているのか?
ともかく、知らせは出そう。悩んでいる時間はない。
せめて、僕の故郷じゃなくても、どこか他の星に宇宙人がいて、その人たちが僕の知らせを受け取ってくれればいい。何億年の時間がかかっても構わない。
僕は前進を続ける。宇宙の果てを追い続ける。やめられればよかった。寿命がない僕は、真の旅路の果てには辿り着けない。それが僕の使命だから。