土砂降りの雨が窓を叩く。夜はすっかり暗く溶け切った。その闇はより一層のこと暗く、深い。互いに身じろぐ度に擦れるシーツの音と、それに伴って舞う清潔な石鹸の香り。それからCHANELのN°5。
暗闇に仄白く浮かぶ彼女の背中の隆起は陶器のよう。散らばる髪は絹の川。創りものみたいな美しさ。しかれど、何かが足りない。そういう気持ちにさせた。
喩えるならば、サモトラケのニケ。ミロのヴィーナス。彼女の容貌は、玲瓏な声は、まるで美術品のように完成されている。こんなにも完璧で美しく、ただ一つの作品のような見て呉れで、なのに何かが欠けている。そう思わざるを得ない不確定要素が、どうしようもなく私の心をざわめかせている。
「なにが不安?」
「……なんで?」
「そういう表情してる」
「わかるの? 背中向けてるのに」
「わかるよ。あなたのことならなんでも」
超能力じゃん、と戯れてみせようとして、振り返った彼女に呼吸ごと奪われた。頬を撫ぜる指先。からみあう前髪。重なる唇の温度が同じ熱さだった。さっきまでの行為の名残がお互いに強く在る。深く求めあう毎、パズルみたいにかたちを変えた。生きている人間の生々しさ。それが、嬉しい。
元々そういう一つの身体だったかのように、足りないものを補い合っている。補ったり、奪ったり、与えたり、水の流れのように形を変えながら愛情をふくよかなものへと育てていく。
私も負けじと彼女の片手を探して彷徨う。心得ているかのように、捕まって、指先の温度を与えてくれた。柔らかな感触と、その表面の温度の懸隔の美しいこと。彼女の指の股を割って貝みたくぴったり交わりあって。
すきだよ。だいすき。私のぜんぶあげてもいいの。すきでたまらない。言いたいことがうんとたくさん溢れてくる。好きだって、愛しているって。溢れてしまいそうになり、口をひらけば遮るようにして舌が動く。意地悪め。
共鳴する心臓、脈動の強さ。皮膚の薄さが生命の眩しさを伝えてくれる。わたしたちは、今、確かに此処にいて、幸せをわかちあっている。
私はそのままゆっくりお腹の方へ手を伸ばす。形の良い縦長のお臍を思い出しながら、その下の頼りない産毛をなぞった。
「今日はもうしない」
「えー」
「えーじゃないの」
「ケチ」
「もう寝な」
ばさりと毛布をかけられた。ふたりぶんのいのちの温もりを宿したそれは、世界で一番幸福な芸術作品だと思う。甘やかな彼女の香り。それは随分と質量を持っているもののように感じた。ゆっくり、沈殿するみたく、それでいて軽やかに漂うように、肺の奥底で渦巻いている。
「ねえ、」
「なあに」
「だいすき」
「ふふ。わたしも」
「……さっき、なにか考えてた気がするのに」
「うん」
脳みそが隅々まで春に浮遊してる。抱きしめあう素膚が甘くて、思考をうやむやに溶かした。
「おやすみ。愛してるよ」
「…………私も、わたしのほうが」
やわらかに意識の輪郭が堕ちる。彼女の隣こそがこの世で一番あたたかで幸福な場所であり、私の名を呼ぶ彼女の声こそが何よりも甘い音だった。此処に居る限り、雨は身体を冷やさないし、私たちを隔てる世間の声も聞こえない。
忽ち、この空間が教会にも、墓地にも見えた。二人だけだ。抽象的な表現方法で漠然と誓い合って。抱き寄せた彼女の背は小さくて頼りない。それが、どうしようもなく寂しくて、美しいと思えた。
お題/君の背中
「優しくしないでいい!」
「強情な人質サマだこと」
「ひとじち? 私には『ヒメ』って名前があるの!」
「いやそれ名前じゃなくて敬称」
ヤだなぁ子守りなんて。と吐き捨てた王子は目の前の小さな姫君を見下ろした。敵国の第一王女。齢五歳の無力ないのち。可哀想に両国の友好関係のために寄越されたこの子は、自分の周りが敵だらけなのは理解しても、人質であることも、その意味もわかっていないらしい。
ふくよかな瞳。太陽をふんだんに食べた頬。風と遊ぶ髪。姫君を構成する全てが、あの子が愛されて育ったことを物語っていた。自分とは正反対。自嘲したのち、あいつ嫌いだ、と嫌悪。況や嫉妬とも言う。
兎にも角にもあの少女とは合わないと思った。礼儀は尽くすが、最低限の接触だけで済むようにと考えた。それが彼女との出会い。
然りとてそうもいかないのが人生。結局彼女の人生に寄り添うようにして王子は生きた。
王女は美しく優しく育った。決して善い環境なんかじゃなかったのに、甘やかな奇跡を纏った女へと成った。
人質。敵国の王子。立場はなにも変わらず。されど、同じ時、同じ場所で息をしている。くだらない会話で笑い合う幸福の滑稽なこと。そして、緩やかに同じ熱を共有して、軈ては汗ばんで、次第にぬるまって冷えて。
そうやって重ねる暦の、季節のすばらしさよ。
愚かだと思う。それでも、王子はぬるま湯のような日々を愛してしまっていた。願わくば、この日々がずっと。とも。
然りとてそうもいかないのが人生。安寧も、平穏も、続かない。元々が薄氷の上にしかなかった。
焼け野原であろう故郷に意識を投げる。こうならない為の人質という制度だったのに、と掠れた声で王子は呟いた。
「……私だって、必死に反対したよ。私にとっても、あそこでの日々は優しくて楽しかった」
「……はは、そりゃよかった」
「ごめんなさい、お父様を止められなくて」
頭を下げる。もうなにもかも手遅れだろうに、真摯に謝る彼女は、やはりどこまでも美しかった。
「……王子から捕虜に転身だな」
「そんな風に言わないで。丁寧に応対するから。……決して死なせはしないから!」
捕らえた敵国の王族がどうなるか、なんて。言うに及ばず。今更彼女にどうこうできるとも思えない。この先の未来は分かりきっている。
世界で一番醜い、誰にも愛してもらえなかった生だ。そのくせ、愛してほしいだなんてこの上なく浅ましいことを願ったようなせいだ。化け物みたいな生だ。民も国も守れなかったせいだ。だから。
「……優しくしないでいい」
最期に見たかんばせは、やさしい夢に似ていると思った。
お題/やさしくしないで
『お前の息子は預かった。返して欲しくば一〇億円用意しろ』
「おお、古典的な脅し文句」
養父の箪笥を整理していたら見つけたそれ。新聞紙から文字を切って貼って作ったであろうこの薄汚れた紙は、少々粗末な仕上がりだ。経年劣化だけとは思えない剥がれ方とか、指紋がべっとり付着していたりとか。
なんというか、まあ、お粗末なものだった。だからこそわかる。これは我が愛する父が作成した脅迫状だ。杜撰でテンプレートみたいな脅しも、箪笥の中に仕舞うというこれまた古典的な隠し場所に収納しているのも、それを忘れて俺に清掃を頼むのも、全部、間の抜けた養父らしい。
「やっぱり、あれは誘拐だったんだ」
一〇年前、小学生だった俺をひったくるようにして裏路地に連れてきた男は父と名乗った。それが今の養父。
その日から生活は一変。それまで高級車で送り迎えされ、一流のものを身につけていた暮らしとは真逆のそれになった。
でも、俺にとっては天国でしかなかった。殴られ蹴られ、遊ぶことも許されない生活に比べたら今の生活のなんと甘美なこと。
事の真相はきっとこう。
一〇年前、金持ちのガキを誘拐して身代金を得る算段を立てた男は、その子どもが虐待を受けていることに気付いてしまい、情がわいて、あろうことか自らを養父と偽った。つまりあの脅迫状は、本当の両親に送られないまま箪笥の住人となったわけだ。
莫迦だなあ。ほんとうにばか。犯罪に手を染めるほど金に苦労してたくせ、良心は捨てられなくて俺を引き取ったんだ。育児なんてそれこそ大金がかかるってのに。というか、元の家では俺が愛されていないことなんて少し調べたらわかった筈。そういうとこも間抜けで阿呆。
くつくつと噛み殺せない笑いを喉に閉じ込めながら、向かうは養父のもと。
「なあ、親父。ありがとうな」
「あ? なにが?」
彼に拾われて、愛を知った。生きる楽しさを知った。その日々が甘美で動脈の隅まで踊る。肺が歓喜している。それは、紛れもなく真実。
嘘の羊水に漬かる俺は世間から見れば憐れな少年かもしれない。けれど、きっと、ここのなまぬるくて優しい生活は卵巣に似ている。
お題/隠された手紙
彼女は笑顔で僕に言った。
「春が来たらお別れだよ」
僕はこの世界に於いて、僕はどうしようもなく無力だ。
情けなくてしょうがない。いっそ涙すら出てくる。
「なんとかならない?」
僕たちは、春に邂逅したら、別々の道を行く。
二人で話し合った結果でも、縋らずにはいられなかった。
喉が戦慄く。言葉が震える。
僕たちには将来があった。誓い合った未来があった。
今まで育んだ命が、恋が、全部春が来てしまえば理不尽に終わってしまう。
「嫌だよ、ずっと一緒にいたいよ」
「……私たちは別々になった方がいいと思う」
ああ、なんて不条理だ。
こんなクソったれな世界、大嫌いだ。
恋人たちを引き裂いて喰らう鬼がいる。名を「春」という。
お題/バイバイ
ご覧いただきありがとうございました。
よければ下からも読んでみてください。別の物語が浮かんでくると思います。
科学とは全く便利なもので、人間以外の生物の目にだってなれる。それ専用のコンタクトをつかえば鵜の目鷹の目なんでもござい。いや、文字通りの意味で。
閑話休題、私は今からその化学の恩恵を受けるのだ。先述したが、鵜の目鷹の目に鴉の目、獅子に兎にチンアナゴ。ブロブフィッシュって、アイツ目見えてたのか? 況やYouTuberの商品企画かと突っ込まれるかの如くのラインナップ。いっそ映えでも狙って綺麗に並べてみようかとすら思う。地上に幾万と動物がいるのは既知のこと。されど、皆がみな、視界に相違があって面白い。
濡れそぼった眼球にコンタクトを押し当てる。世界を見渡せるほど視界を開くもの、煌々と光が瞼を焼くもの、世界の色相が一層鮮やかなもの、素早い動きも容易く追えるもの。
「素晴らしいなぁ……ああ、だけども…………」
だけど、だけど。好きな人の見えている世界には到底及ばない!
コンタクトを外す。ぐんにゃりと曲がって床に打ち捨てられたそれは、まるで私の心情を具現化したかのようだった。彼女の世界が、彼女の好きな夕暮れが、彼女の視界と同じようには映らない。当たり前の現実が、それでもひどく寂しかった。
「……あなたの絵、好きだったんだよ。本当に」
ああ、光を、色を失った好きな人。きっともう二度と絵を描けない。素晴らしい科学の進歩は、それでも彼女の視界を蘇らせることは不可能だと判断した。世界中のどこを探しても、あなたの目を代わりには到底なれない。それがひどく虚しくて、コンタクトの空き箱を蹴っ飛ばした。
お題/瞳をとじて