ココロオドル
それはふとした会話から生まれた。
「もし、君が僕より先に死ぬことがあったら君のその手をくれないか?」
君の目がほんの少し瞬いたのが見えた。まるでこの人は何を言っているのだと言いたげに。しかし直ぐにそれが微笑みに変わったので、今度は私が瞬く番になった。
「いいよ。どっちの手が欲しいの?」
「み、右が良いな...僕が握るから」
この女は何て事を言うのだと思った。私の発言を気味悪がることもなく、まして回答を寄越すなんて。私には初めての経験だった。
どくどくと私の心臓が脈を打つ、まるで恋にも似た感覚だった。私たちは互いに目を離せずにいた。私は離したかったが、向こうは私を子供をあやすような慈しむような目で私を見ていた。私は何故かそれが心地よく、ずっと見られていたいような、見られたくないような不思議な気持ちだった。
向こうが笑顔をすっと引っ込めると、私の拘束も解けた。
「じゃあ、遺書にでもそのように書いておこうな」
「い、いいのか?僕は本気にするぞ?」
向こうは笑顔を携えて頷くばかりで結局明確な答えを寄越すことはなかった。
またどくどくと心臓が鳴り響いたこの気持ちは一体何なのだろう。しかし、今日は久々に心が踊りそうなほど気分がよかった。
『狂人』
束の間の休息
走る走る とにかく走る
頑張れ あと少し
声がする ありがとうと答える
走る走る どんどん走る
走って走って
ゴールはまだ無い
見つけるまで 走るのだ
その前にちょっと一息
ふぅふぅふぅ
息が上がる
また立って
走り出す
『走る』
過ぎた日を思う
秋の夕方の事でした。その日は割りと暖かい日でありましたが、道に連なった木立が風にそよそよと打たれるのを見ていると、寒さが背中にかじりつくようでした。
「冬も近そうですね、家まで送りましょう」
そう先生がおっしゃるので素直に甘えることにしました。会話はほとんどなく、風の音のみが会話をしていました。私は何だが沈黙を貫きたい衝動に駆られて、思い付いた話題を先生に投げ掛けました。何て事ないただの友人の話ですが、先生は不快な顔を一つせず相槌を打ってくれました。私は自身の成功を喜びながら、どんどん饒舌になっていきました。
「成る程。つまるところ貴方はその友人を信頼しているのですね」
「ええ、もうずいぶん長い付き合いですから」
「そうですか、しかしね、あまりにも相手に自我を明け渡してしまう行為はお勧めしませんね」
私はこんなことを言われるとは思っておらず、反射的に口を閉ざしました。しかし直ぐに何故そんなことを言うのかと問いました。図らずも声には少し怒気がこもっていたような気がします。友人とは己のよき隣人であると私は固く信じていましたから。
「いや、貴方を傷つけるつもりはなかったのですが、申し訳ない。言葉足らずでしたね。つまるところ私が言いたいのは、自分の芯をしっかり持っておくことなのですよ。此は誰にも渡してはいけないものです」
その時の先生は妙に真剣でなぜか目が離せませんでした。先生は夕日の先のどこか遠くを見ているように私は感じました。私は頭に思い浮かんだ疑問をふと口にだしました。
「先生にも信頼がおける友人がおられるのですか?」
その瞬間先生がはたと立ち止まり、つられて私も立ち止まりました。場の雰囲気は一気に変わり、辺りを緊張が包みました。先生の表情は丁度影になっており此方からは伺うことが出来ませんでした。私は直ぐにしてはいけないことをしてしまったと悟りました。しかしながら、この場の決定権はもう私にはありませんでした。私は張り詰めた空気のなか勇気を出して先生の反応を祈るようにまっていました。
「ええ、いました。いましたとも」
ややあって先生は答えました。先生にしては珍しい、ぎこちない笑顔を私に向けて答えました。私はもう二度と友人の話はしないと心の内に誓いました。
『先生と私』
星座
縁側で先生と晩酌をしている時でした。ふと空を見ると、一面が美しい星空に染まっていました。そんな私の様子に気がついたのか、先生も上を見上げました。
「今夜は綺麗に見えますね。酒の肴に丁度いい」
夜空を見上げながらそう言う先生の横顔が、月明かりに照らされてまるで彫刻のようだと思いました。私は僅かに残っていた酒を呷り先生に聞きました。
「先生は星が好きなんですか?」
「一般の範疇をでない程度にですよ。こうして時々星を眺めては、嗚呼美しいなと思う程度です」
先生は星から目を離さずそう私に告げました。私はまた酒を飲もうと思い杯をとりましたが、空になったことを忘れていたため多少まごついていると先生が気づきました。
「もうそんなに飲みましたか。まだ飲み足りないでしょう。今追加を持ってこさせますから」
先生が向かいの障子に向かって「おい、鈴」と呼び掛けると先生の奥さんがそれに答え、追加の酒を頼みました。追加の酒が来る間先生は、星座に関する逸話を私に語って聞かせました。星座の話は私の好奇心をつかんで離しませんでしたが、私には永遠に感ぜられました。しばらくすると、奥さんが酒を持ってきてくれ、私はようやく酒にありつけることが出来ました。そんな私を見透かしてなのか、先生
が反抗期の子供を苦笑しながら窘めるように私を見ていました。若干の羞恥を感じましたが今はそれで構わないと思いました。
戻ろうとする奥さんを先生が呼び止め今夜は共にどうかと誘っていました。
「そんな悪いですよ。お二人で飲んでいらっしゃったのに」
先生と奥さんが同時に私を見、私は先生に目を合わせ不快でない意思を伝えました。先生にそれが伝わったのか先生は視線を戻し、今日ぐらいは良いだろうと再び誘っいました。最終的には奥さんが折れ、先生の隣に腰かけました。
「今日は星がよく見えますね」
奥さんが感嘆したように言いました 。先生は満足そうに頷きながら奥さんの横顔を見ていました。先生が奥さんに向ける表情は先程の横顔と同じく穏やかでした。私は、酒をちびちびと飲み進めました。奥さんが視線を戻すと、先生と私を視界にいれながら言いました。
「来年もこうして星を見られると良いですね」
私は頷いたが、先生は違っていたようでした。一瞬考える素振りをしたあと、奥さんを見ながら答えました。
「来年。来年か。つまらない事を言うが、鈴。私は来年もここにいるかな」
何て事ない調子で先生が言うので私はぎょっとしました。しかし、奥さんは違っていて依然として態度を崩さず、むしろ強いように思われましたが、決然としていました。
「嫌ですよ。そんな不気味なこと。来年もこうして一緒に見られるだけで良いのですよ」
奥さんにしては珍しいきっぱりとした態度でした。先生は困ったように「分かった」とだけ答えていました。
『先生と私』
踊りませんか?
小さい頃より、私は退屈と言うものに悩まされてきた。
何をやっても満たされない。
誰と何をやっても何も感じない。
もっと、もっと何かが欲しい。
もっと人間の理性を越えた何かが...
それでも私が人間との関わりを絶たないのはやはり、こういう事があるからだろう。彼女は突然やってきた。私が行きつけのバーで飲んでいたとき、鈴の音を転がすような声がするから思わず聞き惚れていた。それが彼女のものだと分かるまでは、そう時間はかからなかった。それからの行動は早かった。彼女が少し離れた席に着くや否や、直ぐに話しかけた。私は、元来人間の所謂、絆だとか友情だとか精神的な神秘にはまるで興味はなかったが、長いこと人間を観察し、その動きを真似、技術として習得していた。それ故、人に好かれるのは人一倍得意であった。おまけに私の容貌もそれほど悪くない。むしろ端正な方だ。おかげで、彼女は直ぐに警戒を解いてくれた。バーに来るのは初めてだという事、好きな食べ物の事、一言一句全て頭に叩き込んだ。この時間が愛おしい。数時間かけて、彼女が私に好意を持ったと確信したとき、彼女を家に誘った。彼女は頬を赤らめ素直にうなずいてくれた。私は彼女の手をとり自宅へと歩き出した。色白で美しく、滑らかだった。やはり私の目に狂いはなかったらしい。
さて、そんな彼女は今私の前で眠っている。酒はそんなに強くないらしい。直ぐに酔いつぶれた。これからの神秘を思うと、動悸が止まらなかった。胸に手を当て、数回深呼吸してこころを落ち着かせる。妖艶さを自身に纏わせ、私は彼女の服に手をかけた。
数時間後、彼女はすっかり全身赤くなっていた。今はぐったりとしている。しかし、そんなところも相変わらず愛おしい。これならば、暫くは退屈な夜を踊り明かすこともできるだろう。実際とても気分がよかった。私はちらと、彼女の魅惑的な手を見た。これが私を虜にしたのだと思うと、女というものは恐ろしく、美しいと改めて思う。私は彼女の手を口元へ持ってゆき、優しく口づけをした。
そして彼女の手を永遠にと変えた。
『狂人』