理想郷
最短経路問題を解くアルゴリズムへのアプローチは様々だ。
任意の点から任意の点までを繋ぐパス長が最短になるにはどうすればいいか。
もっと砕けて言うと、点Pから点Oまで何回他の点を経由するルートが一番早いかを考えてくださいね。
今1階のエレベーターの所で出くわしたKさんからMさんに渡して欲しいと封筒を預かりました。
3階で乗り合わせたUさんが皆さんにもお裾分けと柿をビニール袋にいっぱいくれました。
Mさんのいるフロアと私の席のあるフロアは別です。
8階で降りた所でAさんに捕まって昨日あげた決済について聞きたいことがあると言われました。
さて、私、つまり点PはOさんが会議に入る前に書類に判子を貰いたい。
正解はこのまま真っ直ぐ走る。
万歳最適最高効率世界。
懐かしく思うこと
旧友に会った。
地元を遠く離れた地方都市のそこそこの大きさの駅の改札でて少しのあたりで。
久しぶり、すごい、奇跡じゃないこれ、今暇?、ちょっとそこでお茶でもしばかない?
会わなかった10年程の時間分をギュッとお互いの手と手で握りつぶすように合わせる。
駅併設のカフェに入って注文もそこそこに話に花を咲かせる。相棒はどうやら出張でここをたまたま訪れたらしい。宿泊費が嵩むからこういうとこのビジホがありがたくって。らしい。私はシュッと夫にメッセージを送る。今日、帰り遅くなります。かくかくしかじかこの通りの理由で。分かった、楽しんできてって。
ハイタッチ、よしきた今日は呑みましょう。是非とも。
仕切り直して、居酒屋。
こういうのもずいぶん久しぶり。地元を出てからずっと疎遠だったからお酒、一緒に呑むの初めてだね。
それから色々と積もる話というものを話した。
ふと、タイムカプセルの話になった。
成人したら開けるという小学校の伝統儀式。我が母校は強制参加、地元超密着タイプ。実家から同窓会の葉書、来てるけどと連絡が確か来ていた。あれももう7年くらい前か。
さいあく、結局行かなかったんだけどほんと小学生の頃の私何考えてたんだろ。わが心の友はぐでんぐでんになりながら愚痴る。
わざわざ家まで入れてた中身を届けに来たらしくてさ、仰々しく、お元気ですか?って。
中身、その時好きだったおもちゃのカードゲーム…自作のイラスト…本当、なんで全部中身ひっくり返して渡してくるんだろ!
どんどん、と机を叩く、突っ伏す、酔っぱらいよやめたまえやめたまえ。
君はいいよねー!
ガバッと起き上がってムッとした顔で見てくる。
私がタイムカプセルに入れたのは写真だった。
なんかの遠足の時のクラス集合写真。どんなのだったか覚えてないけど。
あの時から、君はなんというか、そういう生き抜く術が巧みだったよね。
しんみりと言われる。
そうだね。
もし、誰かがあの頃を懐かしく思うことがあるならば。
写真は勝手に持ち帰っているでしょう。さもなくば捨てて。私がそこに居なくともつつがなく進む。
そういう場所だった。
もう一つの物語
もう2kgは間違いなく痩せた。絶対。
だってここ一週間まともなご飯を食べてない。
お母さんはもう呆れ返ってる、勝手にしなさいって。
でもこればっかりはしょうがないんだって。
1年前、大事件が起きてしまった。
燦然と自分のタイムラインに踊り込んできた文字列。
『実写版スティック・ストライク〜もう一つの物語〜 ポスタービジュアル解禁 主人公の友人、颯太の隠されたストーリーが今明らかに!』
ヤバい。無理。胃が痛い。
自分の最推しコンテンツの『実写版』
マイ推しメインの『もう一つの物語』
もしSNSが一つの島なら沈没しちゃうんじゃないってくらい界隈は揺れに揺れた。他のアカウントにとってはさざなみ程度なんだろうけど。
自分はふーん実写化するんだ見に行こっかなくらいのテンションだった。映画の中心人物が自推しだってことに数秒遅れて気づくまでは。
スティック・ストライクは元々は児童書、といっても高学年向けの結構分厚めの本。今10冊くらい出てる。結構長寿ジャンル。
小学校ラクロス部舞台のスポーツもの。
子供の頃2巻くらいまで読んで卒業しちゃってた。
それなのに友達に着いてって2年前アニメ映画を観に行ってから全てが始まってしまった。
絶対見て!奢るから!お願いだから着いてきて!って誘われてふーんそんなにってすごく軽い気持ちで入場した。好きなものの話してる友達のことすごく好きだし。
そして見事に落ちた。
颯太君。
いわゆるゴールキーパーポジの彼は主人公の親友でいつも穏やかで頼れる奴、なんだけど親の都合で一瞬転校しちゃう。
新ゴールキーパーポジ決まらない限り練習試合もできない!大ピンチ!っていうエピソード。
主人公が代わりにゴールキーパーをやりますって名乗りを上げるんだけど挫折、って展開させないのが颯太君。そうなるだろうなって分かってる颯太君はゴールキーパーの極意をちゃんとノートにまとめてて。どこまでも頼りになるなって。
つまり最高エピソードなんだよね!最後には戻って来てくれるし。
エンドロールの余韻に浸りながら絶対推す…って泣きながら誓った。最高。愛。
そして実写版はこのアナザーストーリー、シナリオ完全新規らしい。
嘘でしょ。
深呼吸して公式アカウントを薄目でもう一度確認する。
主演のビジュアル、推しのこと、最高。私でも知ってる俳優さん。演技力も最高。特報映像見ました?1000回は再生しちゃったかも。
映画のあらすじをチェック。
高校ラクロス部でゴールキーパーとして活躍する〜、ストップ。高校生?
OK、実写版で年齢が+されるのはよくある話、と聞く。タイムラインのお姉さんが言ってた。大丈夫。高校生の颯太君も最高だもんね、同い年になっちゃった。不思議。
映画情報サイトの記事もチェック。
ヒロインは今年大ブレイク中の〜、ストップ。
ストップ。待って。思考停止。ダメかも。
転校中の話って本当に無から出てきた話であって、耐衝撃吸収装置も何もついてない。
お願い脚本家の人、私生きて映画館出られるでしょうか。
誰も知らない裏で颯太君はどうしてどうなっちゃうの本当に。
でも映画が大ブレイクしたら世界に颯太君が届く。バランスは取れてる。
公開映画館うちの県に一個しかないけど。公開当日金曜日レイトショー見に2時間かけて移動ですけど。
ありがとうお父さん。今日もありがとうって言おうと思う。お母さんも心配させてごめんって。
ずびっと鼻をすする。
情緒ずっとめちゃくちゃ。今日水曜日、明後日公開日。
公式もSNSも正直チェック出来てない。そういや最新情報見てなかったなって上の方に遡る。
《入場特典:原作者書き下ろし小説!チームメンバーの日常ミニストーリーを週替わりでお届け》
呼吸止まるてこんなん。
ありがたすぎ、感謝しかない。
でもさすがにこんな直前に開示しなくても流石に良くない?
とりあえず私をはめた友達にメッセを送る。書き下ろし小説絶対欲しくない?!って。
テンションの乱高下がすごい。もうめちゃくちゃ。
だめ。今日もゼリーしか喉を通らないかも。
暗がりの中
今日の日の出は6時17分。
それよりも前に起床。
暗がりの中起き出して軽く顔を洗い、寝る前にセットしておいたウェアに着替える。肌寒い。
これは使って、と娘に口をすっぱくして言われている反射テープを腕と足とにぐるっと巻いた。事故防止用、今日もご安全に。
そっと玄関から出て、公園までゆっくりと歩いていく。町はまだ眠っている。
ベンチに荷物をいったん置いて軽く準備運動していく。スニーカーの紐を一度ほどいて結び直して、走りだした。
定年後、からのキャリア社員としての出向から数年。
喫緊の課題が浮上した。
無趣味だ。
老後の楽しみというが何も楽しみではない。やる事がない。
妻には、なら一緒に楽器やる?と誘われている。
誘われてはいるがマリンバというのが躊躇させる、何かいい並奏できる楽器など無かろうか。いっそ横でずっと聴いてる方が楽しい。練習中は気が散るからダメ、と笑って止められるが。
読書、囲碁、将棋、盆栽、詩歌、競馬、どれも性に合わない。一体全体どうして静的なものばかりなんだ。老人だって暴れたい。
同僚は畑を借りて野菜を作っているらしい、こぢんまりとしたものだけどと笑いながら貰ったお裾分けのきゅうりは店のものより5倍は大きくて、なんだこれはと思ったが美味しかった。畑はいいかもしれない。
ゲートボールは近所のサークルをすでに調査済みだ。まだ参加には早い。
そして思い切ってこのウェアとシューズを買ってみたのだった。
趣味:ランニング
これはいい。
ちらりと時計を見つつペースを緩やかに落としていく。坂道なので自然とゆっくりになるが。
息が軽く上がっていく。ちょっとした高台の終点に着いた。夜明け前だ。
だんだんとあたりが明るくなっていき、ぼんやりしていた何もかもに朝の影が落ちていく。自分がくっきりとしていく。
開けた高台から見下ろす街はまだ静かに朝霧に包まれていて、美しかった。
朝の澄んだ空気を一度大きく吸って、吐いた。
うまい。
紅茶の香り
退職祝いに紅茶を頂いた。
ふらふらの状態でなんとか暗い自宅まで辿り着き、ようやく一息ついて頂いた紅茶の缶を見る。
このようなものとはとんと縁がない。
困り果てる。
とりあえず開けてみる。
缶の上を止めている明るい色のテープを爪でカリカリと剥がし、封を切る。
乾燥ひじきだ、乾燥ひじきじゃないか?
てっきりティーバッグが詰まってるものと思っていた。動揺する。久しぶりに見た、いい紅茶だ。いい紅茶は缶に直に詰まっている。そうだ。
キッチンをはっと振り返る、全く生活感のないそこに何かあったっけ。何か紅茶を淹れるための器具が。
茶漉しなんてものはない、最後に見たのは実家かな、給湯室にすら縁がなかったし。
とりあえずヤカンを火にかけてしまう。まずお湯が必要だ。お湯が沸くまで数分。
何を入れているか定かではない引き出しを開けてみる、なぜか入ってる電池、輪ゴム、ピーラー、役に立つものなどここにはない。戸棚を開ける。水切り用のネット、新品。漉せる、これは漉せるがさすがにどうなのか。ギリギリアウトというやつではないだろうか。
スマホをサッとタップする。
紅茶 茶漉し ない
上から検索結果をさっと流し見る。
ザル、それだ。ザルならある。なんだかんだほとんど使っていないし。穴も茶葉が逃げていくほどの大きさではない、はず。やってみないと分からないけど。
適当なマグカップの上にザルを置いてみる、だめですね。自分の不器用さでは大惨事。
これならと置きっぱなしのミルクパンの上にセット。フィット、いいじゃないですか。適当なスプーンでざっと茶葉をザルに入れる、とりあえず二杯ほど。目分量、職場からの頂き物だ、豪快に行こう。
ヤカンで沸かしていたお湯もちょうど良さそう、底の方にある茶葉の上目掛けてお湯を注いで、勢いよく注いでは良くないのでは?と止まる。素通りしたお湯を飲む羽目になるところだった。少しづつ慎重に、お湯をまわしかけていく。茶葉ごと煮てザルにあけた方が良かったのかも。要検討だ。
だんだんと狭い部屋に暖かい紅茶の香りが立ち込めていく気がする。
ミルクパンからこぼさないようにマグカップへと紅茶をそそぐ。完成だ。多分。
そういえばまだカーテンも閉めていなかった。
せまいダイニングの椅子にこしかけてぼんやり外を眺めながらゆっくりと啜る。美味しい。
そうだ、明日はゆっくり起きて紅茶を淹れる何か、何かを買いに行こう。
やっと、肩の力が抜けた気がした。