:1000年先も
スーパーで買う予定のなかったものを手に取って誇らしげに僕に見せ、カゴに入れて満足気な顔をする君。
カラスの鳴き声を聞きながら並んで歩く帰り道では、靴擦れが気になるのか少し歩幅を変えて、アスファルトの小さな段差に躓かないように足先を払っていた。
何も言わずに背中を差し出すと、一瞬だけ迷う素振りを見せたあと、軽く体重を預けてくる。その拍子に、嬉しそうな鼻歌が背中越しに伝わってきた。
そんな、
どこにでもある時間の中で何度も同じことを確信する
―― ああ、やっぱり君だ、
それは直感というより、もっと鈍くて、身体に、自分そのものに染み込んでいる、そんな感覚。
君が笑うとき、ほんの少し息を吸ってから口角が上がる癖。何かに集中しているとき、無意識に指先を組むところ。眠くなると声が溶けて、語尾が曖昧になるところ。その時の感情を素直に表現するところ。
そういう細部が、説明できない安心感として胸の奥に溜まっていく。よく知っている。思い出そうとしているわけでもないのに、馴染んでしまう。
夜。君が先に眠ってしまったあと、静かに隣で横になる 灯りを落とした部屋の端で君の横顔を眺めながら耳を澄ますと、規則正しい心臓の音が聞こえる。
速くも遅くもなく、強くも弱くもない、ただ生きているという証拠みたいな音。そのリズムに身を預けると、僕の呼吸も自然に整っていく。理由は分からない。ただ、その音のおかげで胸の奥がひどく落ち着く。守りたいとか、失いたくないとか、そういう大げさな言葉よりも前に、 ''ここに君がいる''という安堵が先に来て、その後にふと、時間が止まればいいのに。なんて考えてしまう。
君は過去を振り返ることをあまり好まない。
未来の計画を細かく話すタイプでもない。
ただ、今日の夕飯の献立や、明日の天気に合わせて靴を選ぶことを丁寧に考える。その姿勢が、僕には眩しくもあり、少しだけ切なくもある。
ある時、何気ない仕草の途中で、君がぽつりと呟いた。
「 前にも、こんなことあった気がする 」
それは懐かしさというより、首を傾げるみたいな軽い調子で、すぐ別の話題に流れていった。
でも、その一言が胸に落ちた瞬間、僕の中では長い時間が静かに重なった。思い出す必要はない、と思いながらも、同時に、何度も同じ場面に立ち会ってきたことを否定できなかった。
━
君は知らない。知らないままでいい。 君が今の君として幸せに笑って、何事もなく1日を終えて、眠って、また朝を迎えることが何より大切だから。
世界は変わる。人も、価値も、約束の意味も、簡単に形を変えてしまう。 それでも不思議なことに、君だけはいつも見つかる。
なぜか分からないけれど、足が向く場所があって、
なぜか分からないけれど、振り返った先に君がいる。
そして見失ったことは一度もない。
僕はその事実だけを受け取る。
理由を考えるほど野暮になる気がして。
━
ある夜、君が少し不安そうに僕を見ることがあった。
「 ねえ、ずっと一緒にいられる? 」
まるで天気を聞くみたいに。 冗談のようだった。
でもその目はどことなく真剣で。
答えに迷うふりをしながら、黙って手を握った。
温度も、感触も、確かに今ここにあるもの。
それらは積み重ねてきた時間すべてを静かに運んできては、優しく肯定してくれる。
僕は知っている。
その問いが、どれほど軽く、どれほど重いかを。
ただ、今の君に向けて、いつもの調子で答える。
「 1000年先も 」
:勿忘草
私は、城の塔の窓辺に立つたび、風の色を思い出す。それは青に近く、けれど空ほど澄んではいない、名を与えられる前の感情のような色だった。幼い頃から、私の世界は白い石と規則でできていた。正しい姿勢、正しい言葉、正しい沈黙。未来はすでに決められていて、私はそれを拒むことも、望むことも許されていなかった。姫として生まれた以上、私は「私」である前に、国の象徴でなければならなかった。
宮廷での日々は、呼吸を浅くする訓練の連続だった。
作法、礼儀、教養。間違いは即座に正され、感情は矯正された。悲しみは弱さとされ、喜びは慎まれるべきものだった。私は泣き方を忘え、笑い方を制限され、心を持つことそのものが未熟だと教え込まれた。
それでも、倒れずに立ち続けていられたのは、いつも少し後ろに、彼がいたからだ。
あの人は幼なじみで、私の近衛騎士だった。
歳を重ね、お互いの立場が固まっていくにつれて、幼い頃のように笑い合うことはなくなっていった。
けれど半歩後ろ、決して前には出ない距離で、静かに、確かに、そこに在り続けた。多くを語らず、必要以上に目立たず、けれど私が不安に足を止めたとき、必ずそこにいるとわかる存在だった。守るという行為は、声高に誓われるものではなく、ただ傍に居続けることなのだと、あの人の姿を持って知った。
╴
忘れられない出来事がある。
ある日の作法の稽古で、私はわずかな所作の乱れを厳しく咎められた。言葉は鋭く、逃げ場はなかった。
指摘は次第に作法から逸れ、血筋、役割、将来の婚姻にまで及んだ。指先が震え、視界が滲み、それでも私は頭を下げ続けた。感情を表に出せば、さらに叱責されることを知っていたから。
そのときだった。
あの人が一歩前に出た。決して越えてはならないとされる線をほんのわずかに踏み越えて。空気は張り詰めた。彼は剣に手を掛けることも、
声を荒げることもしなかった。
ただ、私と叱責の間に立ち、視線と言葉を受け止めた。
騎士が王族を庇うことは許されていても、叱責の主体が高位の貴族であった場合、それは政治的な意味を持つ。彼の立場、家名、将来。すべてが危うくなる行為だった。
やがて短い咳払いひとつで咎めは打ち切られ、私は解放された。彼はすぐに元の位置へ戻り、何事もなかったように立った。
しかし
その背中が、私には世界のすべてよりも大きく見えた。
╴
中庭での訓練を眺める時間だけが、私の息継ぎだった。剣と剣がぶつかる乾いた音、朝露に濡れた石畳、吐く息の白さ。あの人の動きは無駄がなく、静かで、強かった。強さとは誇るものではなく、耐えるものなのだと、私は思った。
視線が重なる瞬間、言葉にならない何かが胸に宿ったが、それに名を与えることはしなかった。名を与えた瞬間、壊れてしまう気がしたからだ。
戦の気配は、いつも音より先に匂いとしてやって来る。鉄と土、焦げた布の気配。城の空気は重くなり、武具が運び出され、兵が集まり、祈りが増えていった。
その頃には、あの人の背中は以前よりも遠く見えた。
彼は何も変わらぬ顔で務めを果たしていたが、私は知っていた。戻らない者がいる戦に、彼もまた向かおうとしていることを。
出陣の朝
私は微笑み、祝福の言葉を与える役を演じた。
あの人は私の手の甲に口づけ、跪き、剣を胸に当てた。それは忠誠の形式でありながら、今思えば、私だけに向けられた別れだった。彼は振り向かなかった。その背中を見送ることしか、私には許されていなかった。
戦は長引いた。日々は噂と祈りで埋まり、帰る兵は減っていった。鐘の音は次第に低く、重くなり、そのたびに城の壁が少しずつ迫ってくるように感じた。毎日、使者が城をかける音と戦場に関する噂に耳を傾けた。
私は勝利を祈らなかった。ただ、生きて戻ってほしいと、それだけを何度も願った。
知らせは真夜中に届いた。
あの人の名は、最初に挙がった。言葉を探したが、音にはならなかった。胸の奥が乾き、砂が擦れるような感覚だけが残った。涙は出なかった。泣かないように、私は長い時間をかけて作られてきたから。けれど、その瞬間、確かに何かが終わった。
守ったのは、国か、民か、王か。
それとも ――
答えは誰にもわからないし、
きっと、あの人自身にも区別はなかったのだろう。
╴
人々は彼を英雄と呼んだ。勇敢さが語られ、名は記録に残った。だが、彼が私の前で見せた、あの一瞬の静かな優しさを知る者は、もういない。
╴
葬送の日。
薄曇りの朝に行われた。公的な参列を求めたけれど、父は私に許しを与えることはなかった。
それでも、会いたかった。誰がなんと言おうと。
遠目からでもと城を飛び出し街に出る。
ああ、こんな無謀なことをしたのはいつぶりだろう。
あの人が今の私を見たら何を思うんだろう。
そんなことを考えながら、
必死に群衆をかき分けた先に彼はいた。
旗は低く垂れていて、鎧は光を失い剣は彼の意志を語れないまま横たわっていた。
棺がどんどん遠ざかり、ついに見えなくなった時、私は言葉に出来ない感情と共に城の裏手の小さな川辺に立った。誰も気に留めない場所に、青い小さな花が群れて咲いていた。名も知らぬその花に指先で触れると、驚くほど儚く、それでも折れずに、そこに在った。
あの人がいたなら、きっと何も言わずに隣に立ち、剣も鎧もない姿で、同じ風を見ただろう。
―― これは、私の誓い。
声に出せなかった想いも、許されなかった未来も、すべてを包んで、忘れないために。
あなたが命を懸けて守った世界の片隅で、私は青い花に返事をするかのように語りかける。
「忘れない」
:こんな夢を見た
灯が消えた理由は些末な前置詞のように思い出の端に置かれている。
日常は残酷に平坦で、
記憶の中の盛り上がりを平らにしていく。
友人がくれる「忘れた方が楽だよ」という言葉は、雑巾がけの後の床のように濡れた冷たさを呼び込むだけだ。
忘れることは簡単じゃない。
忘れることは、あの人が教えてくれた全てを一つずつ封じていくことだ。
私はそれができなかった。
代わりに私はその声を、その動作を小さな儀式にして、日々を編み直す作業をしている。
誰かに語りかけるように、時々声を出したりする。
声は必ずしも返ってこないが、空気の中に私の声が反響するのは嫌いではない。あの人に向けられた言葉は、いつからか日々の習慣になった。
「 今日ね 」と唐突に始めると、私は些末なことや、見た映画のくだらない批評を続ける。返事はない。しかしその独り言が、私を宥め、あの人に届くような気持ちにしてくれる。
そして朝に紅茶を淹れるとき、あの人が好きだったレシピを手順通りに淹れ、窓辺にそのカップを置いては飲まないまま冷ましておく。微かに温かいだけで、それが生きている証明のように感じられるから。
日が沈んで、いつものようにカップを洗いに部屋に入ると、ふと、アルバムが目に留まった。
苦しくなるから、と棚に押し込んだのを思い出した。
何年開いてなかっただろうと椅子に腰掛け、噛み締めるように一枚一枚、写真とあの人のメモを辿っていく。
愛おしさと、そのどことない心地良さに、いつの間にか眠りに落ちてしまった。
╴
初めて手を繋いだ日の風が、まだ私の掌のひらに張り付いているような気がする。
いや、正確に言えば、それは「今」なのかもしれない。夢の中で私は、あの日の風の冷たさも、指と指の間に伝わったほのかな震えも、まるで目の前で起きている出来事のようにもう一度受け取っている。
写真は色あせ、文字は滲み、アルバムの角は擦り切れていたのに、ここでは光が白く鋭く射して、その一枚一枚の輪郭がしっかりと保たれている。
日々はいつも少しずつ剥がれていくものだと誰かが言ったが、今の私の胸の内にあるのは、剥がれかかった紙片をもう一度貼り合わせるような行為だ。
つまりこれは忘却の進行を阻むための、夢という名の抵抗なのだろうか?そんな考えが浮かぶ前に、私はもうあの人の顔を見ていた。
あの人は台所の入り口に立って、古いカーディガンの袖を指で軽く引っ張っている。笑うと頬に小さな窪みができるところまで、あまりにも正確に再現されている。針が落ちレコードが擦れる音、朝の紅茶の蒸気、二つのカップが並ぶ光景。一見するとありふれた朝の一場面だが、夢の中にしてはあまりにも生活的で、続いている。
それが逆に、これが夢であることを忘れさせた。
あの人は「ねえ」とだけ言って、私の方へ歩み寄る。
指先の温度が、本当にあるかのように伝わってきた。
ここでは時間の刃が鈍っていて、出来事は切り取られたまま揺れている。初めて会った日の景色も、最後に見た病室の蛍光灯の白も、同じ冊子の中の頁のように並んでいた。
ただし順番は混ざっていて。夢というのは、時間を整列させるのが本当に下手だといつも思う。
思い出すのではない。思い出されるのだ、と私は気づく。忘れかけていた手触りや匂い、どうでもいいように思えた会話のぶつ切れが、夢の内部でゆっくりと立ち上がってくる。
—— それらは私が自発的に呼び戻したのではなく、夢の屋根裏から梯子が降りてきて、ひとつずつ引っ張り出してくれたような感覚だ。
窓の外では雨がまだらに降っている。
土手沿いの花、濡れたアスファルトと、切り分けてくれた柑橘の残り香、古い本の紙の匂い。あの人はそれらを名前で呼んで、私に教えてくれた。
「 これ、好きでしょ? 」と手渡すように差し向けられる香りを、夢の中の私は確かめるように深く息を吸っている。呼吸ごとに、忘れていた声のトーンが戻ってくる。
アルバムはここにはないけれど、走り書きのメモは淡く浮き上がって、台所のテーブルに散らばっている。そこには「やること」リストと呼べるような雑多な言葉があり、まるで生活の端材のようにして日常を支えていた。
季節は巡り、桜の枝先は夢の縁で振るえ、川沿いの土手の匂いが瞬間的に拡がる。だが、この夢の季節は標本の中のように固定されていて、散るはずの花びらが空中に滞る時間がある。散ることすら忘れられている花の群れを眺めながら、私は奇妙な安心を覚える一方で、それが長くは続かないことも同時に感じている。
夢の中の私たちには喧嘩もあった。
ささいなことに腹を立て、言葉に詰まった夜。
けれど些細な不協和音が二人の間を通り過ぎても、結局いつも笑いが戻った。そうした不完全さもまた、この場にあって、私たちを本物にしている。
あの人がキッチンで紅茶をこぼして「 あー、だめ 」と自分を責める様子、私が古いタオルでそれを拭き取りながら「 大丈夫 」と言う習慣。
今思えば、私が「 大丈夫 」と言うのを聞くためだけに、あの人は何度も紅茶をこぼしたのかもしれない。
その不器用さ。
—— 不服だと言いたげな眉を寄せる仕草、私に嘘をつくとき謎に張り切って顔が歪むところ、靴紐を解くときの手つき、寝ぼけながら私を呼ぶ声 ——
それらは全部、今ここで愛おしく確かな資料だ。私はそれらを飽かずに眺める。夢は、思い出を摩耗させるよりも先に、その表面の埃を払って見せてくれる。
そして、ときどき夢は優しく残酷だ。
あの人が私の手を取る度に、胸の中に小さな亀裂が生まれる。温度が伝わるたびに、どこかで現実の壁が薄くなるのを感じる。
夢の端々にちらつくのは、記憶と現実の取り違えだ。
目が覚めた時 私はどれほどのものを持ち帰れるだろう。どれほどが現実の皿の上に、冷めたまま残るだろう。
私は夢に助けを求めたわけではない。
けれど夢は答えをくれる。
忘れていた日々をほんの少しだけ現れては消していく。それは慈悲でも、拷問でもなく、むしろ礼儀正しい追憶の仕方だ。
私はこの時間をかき集める。
匂いを、指先のしわを、あの人の笑いのニュアンスを。
どうして人は、こうした些細なものを失うと大きな穴を感じるのだろう。
失われたすきまに風が吹き込むと、学生時代の教室の匂いや夏の砂の熱が戻ってくるみたいに、過去は断片で襲ってくる。
夢は最後に、静かに戸を閉める。音が遠ざかり、色が薄くなり、あの人の輪郭が柔らかく溶けていく。
その瞬間、私は恐れずに笑う。
なぜなら私は確かに触れていたのだから。
冷たくもなく、ただ確かな温度が掌に残った。その温度を胸に抱えて、現実のテーブルに腰を下ろすときを待つ
━━━ 目を開けた後に誰かに語るための言葉を保存しておきたいから。
╴
そして今、
私は座り、湯気の立つカップを両手で包みながら、夢の音と匂いを一つ残らず渡すつもりで、小さく息をつく。
「 こんな夢を見た 」
:海の底
記憶というものは、沈殿する。
失われたのではなく、ただ深く沈み、触れられない場所で眠っているだけ。
その意識が私の''記憶''と結びついていることに
気がついたのは、ずっと後になってからだ。
ふいに浮かび上がるのは、
決まって夏の匂いを感じたときだった。
潮の湿り気を含んだ風や、焼けたアスファルトの熱、遠くで鳴く蝉の声。そうしたものが重なった瞬間、胸の奥がきしむように痛み、言葉にならない感情が押し寄せてくる。
╴ あの夏も、そうだった。
幼い私は、両親に連れられて久しぶりの遠出をしていた。車の中ではいつものように小さなことで言い合いが続き、彼らの声は外套の下から聞こえてくる遠い雷鳴みたいだった。私は窓の外の世界だけ見て、そのときの自分を守った。
着いたのは海。
白く光る砂と、そこに押し寄せる波と音。
けれど車内から降りても両親の影は重く、言葉は私を縛る帯のようだった。私は気づかれないようにその場を離れ、ひとり浜辺へ向かい岸沿いに歩き出した。
潮の匂いが顔を撫でると、気分が少しだけ軽くなる。
白い砂は熱を帯び、波は規則正しく寄せては返す。
その光景だけが、世界に秩序が残っている証のように思えた。
╴ そこで彼を見つけた。
年はたぶん私と同じくらい。砂の上に一人、男の子が座っていて、こちらがその存在をはっきり認識するよりも先に、彼はすでに私を見ていた。静かで、穏やかで、なぜか昔から知っているような眼差しで。
導かれるように隣に腰を下ろしても、彼は何も言わなかった。問いかけも、慰めもなく、同じ方向を向いて海を見ていた。
波は語ることなく岸に寄せては引き、時間はゆっくりと、でも確かに流れていく。それが私たちのあいだに溜まった言葉の代わりになっていた。
━
その沈黙のなかで、私はふと口を開いた。
「 …… 海の底に、行ってみたい 」
願いというより、思い出すような感覚だった。ずっと前から、そこに何かがあると知っていたような。
彼は少し驚いた顔をしてから、微笑んだ。
「 連れていってあげる 」
子供ながらになんの冗談だと思った。おとぎ話みたいで、現実味がなかった。そう言って流そうとした私を、彼は真っ直ぐな声で遮った。
「 ぼくは、君に嘘はつかない 」
今日会ったばかりなのに。なんて思いながらも、その言葉には不思議な重さを感じて。
幼い私には理由の分からないまま、胸の奥に落ちていった。
彼は私の手を取った。
指先は少し冷たく、それでも懐かしい温度だった。
そのまま、海へ向かって歩き出す。砂の感触が指の間を抜けていき、足首、膝、腰へと水位が上がっていく。
恐怖心は無かった、と思う。
私は泳ぎが上手いとはお世辞にも言えなかったけれど、海は好きだったしその日はよく晴れていて、水がどこまでも透き通っていたから。
ただ私の頭の中は放置されて絡まったコードのよう。
1から10まで言っている言葉が理解できない。
そして理解できないことを理解しようとする感覚だけが、頭の中を満たしていった。
━
そんなことを考えていると。
いつの間にか海水は首元まで来ていた、彼は立ち止まり、私を見た。
「 信じて 」
声は鼓膜に柔らかく触れた。
私はその目を見ながら、ただ頷いた。
理由は分からなかったが、それ以外の選択肢が存在しないように感じた。
その答えに満足したというように笑った次の瞬間、彼は勢いよく潜った。
反射的に目を閉じたが、息を止めるタイミングが一瞬遅れて、胸がきゅっとなった。
――「苦しい」
そんな感覚が、ほんの一瞬だけ脳をよぎった。だがそれは波のように静かに消えていく。
水は肺を侵さず、胸は穏やかに上下している。恐る恐る目を開けると、そこには確かな世界があった。
青は深く、しかし暗くはない。柔らかな光が上から降り注ぎ、海の底は静かな広がりを持って存在していた。
海藻が歌うように揺れて、珊瑚は時間そのものを形にしたかのように佇み、私の周りを魚たちが輪になって泳ぐ。音はなく、代わりに心臓の鼓動が、世界と調和していた。
彼は笑顔のまま私の手を引き、岩場の間を進んでいく。そこには確かな温もりがあり、守られているような、そんな安心感に包まれた。
私はそこで、どれほどの時間を過ごしたのか分からない。ただ、失われていた何かが、静かに満ちていくのを感じていた。
━
やがて、彼は立ち止まった。
「 またここに来て。ぼくは待ってるから 」
声は遠くで、でもどこか近かった。
私が尋ねる前に彼はふっと笑って言った。
「 忘れてもいいよ。覚えていなくても__ . 」
気がつくと、私は海辺の岩場に横たわっていた。
夕暮れの空が赤く染まり、
遠くから両親が私を呼ぶ声が聞こえる。
海は何事もなかったように、ただ波を返しているだけ。
あの子はもうそこにはいなかった。
砂の上には足跡が一つ、海へと続いていた。
私はその跡を見つめて、波の音を耳に刻んだ。
全て幻だったのだろうか。
―― それとも、
━
それから長い時間が過ぎてしまった。
私が時々海を思い出すのも、通り過ぎる潮の匂いに、ふっと視界が揺れるのも、夢の中で波の中へ戻ることもあれば、駅で見かけた誰かの横顔に胸が刺されることがあった、日常の端々で、重なり合った夏の断片が顔を出していた。その全てが私の記憶だった。
彼の声も、顔も、ほとんど忘れてしまった。
けれど。
忘れていた約束をなぞるように
私は海の方へ足を伸ばす。
岩場に腰かけて、砂粒を指で集めては落とす。
ふとした時、思いがけずその手が私の掌に触れた気がして、心臓が跳ねる。振り向くと誰もいない。ただ潮が笑っていた。再会を約束された場所を見つめ、目を閉じて、心の中で確かめるように呟く。
—— あなたは、いるのよね。
「 海の底に 」
:また会いましょう
╴
街の喧騒が遠のき、
冬の夜空が澄んだ冷たさをもたらしていた。
駅から少し離れたこの場所に立てば
都会の眩い光がふと消えてしまうかのようで。
目に映るのは青白い街灯の光だけだった。
╴
彼と出会った日も、この季節の寒い夜だった。
美しく飾られたショーウィンドウに見蕩れていたら、
気づけば隣に彼がいて、背を少し丸めて冷えた手をポケットに押し込み、赤いマフラーに顔をうずめていた。
火照った鼻先と、どこか気怠そうなその仕草が妙に印象的で。
大勢の人が行き交う中、彼から目が離せなかった。
ふとした瞬間に私の視線を拾うと、彼は少し微笑んだ。
その笑顔が、まるで季節外れの朝顔のように
冷たく透き通る空気の中で儚く美しく見えた。
╴
それ以来、自然と何度か会うようになった。
約束はなく、決して親密とは言えない、けれど何か確かな繋がりがあるような、そんな微妙な距離感があった。
彼との会話はささやかで、短いものだった
けれど、隣にいるだけで不思議と心が満たされた。
あの夜道を共に歩くときの沈黙と静寂が、
今ではかけがえのないものになっていた。
╴
月日が経つにつれ私の心は彼への想いで満ちていった。
しかし、それを言葉にする勇気は出ないまま、知り得ないであろう彼の心の内を考え始めた。彼もまた私に同じような思いを抱いてくれているのか、それともただの優しさで私に付き合ってくれているだけなのか。その答えは知りたくないような、知るのが怖いような気がした。
心の中で抱く彼への想いが風船のように膨らんでいくのと同時に、彼が私にはあまりに遠い存在のように感じられたからだ。
その穏やかな横顔は私を安らぎとともに痛みで満たし、度々胸の奥をきつく締め付ける。
╴
ある日、彼は突然「遠くへ行く」と呟いた。
まるで何でもないように口にしたその言葉はあまりにもあっけなく、冷たい風と共に私の胸を貫いた。
理由は語られず、また私も、問うことが出来なかった。
頭で理解しようとするよりも先に、心が強く揺さぶられ視界が歪んでいるのを感じた。
急に地面が崩れ落ちていくかのような感覚に陥り、言いようのない不安が頭から爪の先まで支配していく。
心のどこかで、
この瞬間が来ることを恐れていたのだと思う。
俯きながら彼の言葉を涙とともに飲み込んだ。
╴
それから数日が経ち、彼が去る前夜。
私は再びあの夜道で彼と並んで歩いた。
いつもと変わらない彼の振る舞い、そして街を包み込む夜と静寂が、かえって苦く、苦しかった。
言いたいことは山ほどあったはずなのに、結局、私の口は開かなかった。
当然のことなのかもしれない。
自分の心の奥底にある言葉を、
夜空の星にすら囁くことができなかったのだから 。
二人で街を眺めながら歩く。
私はその一歩一歩が、二人の間にぽっかりと大きな溝を生み出していくようで、酷い焦燥感に襲われた。
いつもより少し早足の彼の背中を追いかけるように歩いていると、不意に彼が立ち止まりこちらへ振り返る。
軽い足取りで私に駆け寄っては何か言葉を口にするわけでもなく自身の赤いマフラーをそっと首から取り外すと、ふわりと私の首に巻いた。
思わず息を呑んだ。
そのマフラーはほんのりと彼の温もりを帯びていて、彼がそっと整えてくれるたびに、鼓動が聞こえてしまうのではないかとさえ思った。
彼の顔をこんなに間近で、
正面から見つめたのは初めてかもしれない。
ずっと横顔ばかり見ていた気がして、どうして今まで気づかなかったのだろうと、心臓が切なく軋んだ。
見つめ合う間、私は何も言えなかった。
ただただ、彼の顔を永遠に忘れることが出来なくなるまで、脳裏に焼き付けようと、じっと見つめた。
その胸の奥には燻った言葉が渦巻いていたが、どうしても口から出なかった。
どれだけ言葉を尽くしても、この関係を縛りつけたくない。彼が去ることが、私にとっても、彼にとっても、正しいことなのだとどこかで信じようとしていた。
「じゃあ、またね。」
彼は、いつもの柔らかな笑顔を浮かべていた。
その顔はあまりにも穏やかで、まるで何事もなかったかのように。
けれど、その瞳の奥にはほんのわずかに揺れる影が見えた気がした。
それは彼が初めて自分の心を私に見せてくれた瞬間だったのかもしれない。
その表情が、今まで見た彼のどんな笑顔よりも愛おしく、そして痛ましかった。
数秒の沈黙を過ごした後、
彼はゆっくりと背を向け、歩き出した。
小さな足音が徐々に遠ざかるたび、マフラーから伝わる微かな温もりが切なさに変わっていく。彼の背中はやがて街の雑踏の中に溶け込み、冬の街に溶け込んで見えなくなった。
私はひとり、冷たい夜の中で立ち尽くし、赤いマフラーと共に凍りついたような静けさの中に取り残された。
ふと空を見上げると、雪がちらつき始めていた。
静寂の中、
彼の言葉が何度も耳の奥でこだます。
それを、
╴
私は
あの夜、かき消すように心の中で呟いた言葉を
そっと、口に出してみた 。
「また会いましょう」