:勿忘草
私は、城の塔の窓辺に立つたび、風の色を思い出す。それは青に近く、けれど空ほど澄んではいない、名を与えられる前の感情のような色だった。幼い頃から、私の世界は白い石と規則でできていた。正しい姿勢、正しい言葉、正しい沈黙。未来はすでに決められていて、私はそれを拒むことも、望むことも許されていなかった。姫として生まれた以上、私は「私」である前に、国の象徴でなければならなかった。
宮廷での日々は、呼吸を浅くする訓練の連続だった。
作法、礼儀、教養。間違いは即座に正され、感情は矯正された。悲しみは弱さとされ、喜びは慎まれるべきものだった。私は泣き方を忘え、笑い方を制限され、心を持つことそのものが未熟だと教え込まれた。
それでも、倒れずに立ち続けていられたのは、いつも少し後ろに、彼がいたからだ。
あの人は幼なじみで、私の近衛騎士だった。
歳を重ね、お互いの立場が固まっていくにつれて、幼い頃のように笑い合うことはなくなっていった。
けれど半歩後ろ、決して前には出ない距離で、静かに、確かに、そこに在り続けた。多くを語らず、必要以上に目立たず、けれど私が不安に足を止めたとき、必ずそこにいるとわかる存在だった。守るという行為は、声高に誓われるものではなく、ただ傍に居続けることなのだと、あの人の姿を持って知った。
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忘れられない出来事がある。
ある日の作法の稽古で、私はわずかな所作の乱れを厳しく咎められた。言葉は鋭く、逃げ場はなかった。
指摘は次第に作法から逸れ、血筋、役割、将来の婚姻にまで及んだ。指先が震え、視界が滲み、それでも私は頭を下げ続けた。感情を表に出せば、さらに叱責されることを知っていたから。
そのときだった。
あの人が一歩前に出た。決して越えてはならないとされる線をほんのわずかに踏み越えて。空気は張り詰めた。彼は剣に手を掛けることも、
声を荒げることもしなかった。
ただ、私と叱責の間に立ち、視線と言葉を受け止めた。
騎士が王族を庇うことは許されていても、叱責の主体が高位の貴族であった場合、それは政治的な意味を持つ。彼の立場、家名、将来。すべてが危うくなる行為だった。
やがて短い咳払いひとつで咎めは打ち切られ、私は解放された。彼はすぐに元の位置へ戻り、何事もなかったように立った。
しかし
その背中が、私には世界のすべてよりも大きく見えた。
╴
中庭での訓練を眺める時間だけが、私の息継ぎだった。剣と剣がぶつかる乾いた音、朝露に濡れた石畳、吐く息の白さ。あの人の動きは無駄がなく、静かで、強かった。強さとは誇るものではなく、耐えるものなのだと、私は思った。
視線が重なる瞬間、言葉にならない何かが胸に宿ったが、それに名を与えることはしなかった。名を与えた瞬間、壊れてしまう気がしたからだ。
戦の気配は、いつも音より先に匂いとしてやって来る。鉄と土、焦げた布の気配。城の空気は重くなり、武具が運び出され、兵が集まり、祈りが増えていった。
その頃には、あの人の背中は以前よりも遠く見えた。
彼は何も変わらぬ顔で務めを果たしていたが、私は知っていた。戻らない者がいる戦に、彼もまた向かおうとしていることを。
出陣の朝
私は微笑み、祝福の言葉を与える役を演じた。
あの人は私の手の甲に口づけ、跪き、剣を胸に当てた。それは忠誠の形式でありながら、今思えば、私だけに向けられた別れだった。彼は振り向かなかった。その背中を見送ることしか、私には許されていなかった。
戦は長引いた。日々は噂と祈りで埋まり、帰る兵は減っていった。鐘の音は次第に低く、重くなり、そのたびに城の壁が少しずつ迫ってくるように感じた。毎日、使者が城をかける音と戦場に関する噂に耳を傾けた。
私は勝利を祈らなかった。ただ、生きて戻ってほしいと、それだけを何度も願った。
知らせは真夜中に届いた。
あの人の名は、最初に挙がった。言葉を探したが、音にはならなかった。胸の奥が乾き、砂が擦れるような感覚だけが残った。涙は出なかった。泣かないように、私は長い時間をかけて作られてきたから。けれど、その瞬間、確かに何かが終わった。
守ったのは、国か、民か、王か。
それとも ――
答えは誰にもわからないし、
きっと、あの人自身にも区別はなかったのだろう。
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人々は彼を英雄と呼んだ。勇敢さが語られ、名は記録に残った。だが、彼が私の前で見せた、あの一瞬の静かな優しさを知る者は、もういない。
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葬送の日。
薄曇りの朝に行われた。公的な参列を求めたけれど、父は私に許しを与えることはなかった。
それでも、会いたかった。誰がなんと言おうと。
遠目からでもと城を飛び出し街に出る。
ああ、こんな無謀なことをしたのはいつぶりだろう。
あの人が今の私を見たら何を思うんだろう。
そんなことを考えながら、
必死に群衆をかき分けた先に彼はいた。
旗は低く垂れていて、鎧は光を失い剣は彼の意志を語れないまま横たわっていた。
棺がどんどん遠ざかり、ついに見えなくなった時、私は言葉に出来ない感情と共に城の裏手の小さな川辺に立った。誰も気に留めない場所に、青い小さな花が群れて咲いていた。名も知らぬその花に指先で触れると、驚くほど儚く、それでも折れずに、そこに在った。
あの人がいたなら、きっと何も言わずに隣に立ち、剣も鎧もない姿で、同じ風を見ただろう。
―― これは、私の誓い。
声に出せなかった想いも、許されなかった未来も、すべてを包んで、忘れないために。
あなたが命を懸けて守った世界の片隅で、私は青い花に返事をするかのように語りかける。
「忘れない」
2/2/2026, 2:00:23 PM