愛しい兎

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:海の底

記憶というものは、沈殿する。
失われたのではなく、ただ深く沈み、触れられない場所で眠っているだけ。

その意識が私の''記憶''と結びついていることに
気がついたのは、ずっと後になってからだ。

ふいに浮かび上がるのは、
決まって夏の匂いを感じたときだった。
潮の湿り気を含んだ風や、焼けたアスファルトの熱、遠くで鳴く蝉の声。そうしたものが重なった瞬間、胸の奥がきしむように痛み、言葉にならない感情が押し寄せてくる。

╴ あの夏も、そうだった。

幼い私は、両親に連れられて久しぶりの遠出をしていた。車の中ではいつものように小さなことで言い合いが続き、彼らの声は外套の下から聞こえてくる遠い雷鳴みたいだった。私は窓の外の世界だけ見て、そのときの自分を守った。

着いたのは海。

白く光る砂と、そこに押し寄せる波と音。
けれど車内から降りても両親の影は重く、言葉は私を縛る帯のようだった。私は気づかれないようにその場を離れ、ひとり浜辺へ向かい岸沿いに歩き出した。
潮の匂いが顔を撫でると、気分が少しだけ軽くなる。
白い砂は熱を帯び、波は規則正しく寄せては返す。
その光景だけが、世界に秩序が残っている証のように思えた。

╴ そこで彼を見つけた。

年はたぶん私と同じくらい。砂の上に一人、男の子が座っていて、こちらがその存在をはっきり認識するよりも先に、彼はすでに私を見ていた。静かで、穏やかで、なぜか昔から知っているような眼差しで。

導かれるように隣に腰を下ろしても、彼は何も言わなかった。問いかけも、慰めもなく、同じ方向を向いて海を見ていた。
波は語ることなく岸に寄せては引き、時間はゆっくりと、でも確かに流れていく。それが私たちのあいだに溜まった言葉の代わりになっていた。




その沈黙のなかで、私はふと口を開いた。

「 …… 海の底に、行ってみたい 」

願いというより、思い出すような感覚だった。ずっと前から、そこに何かがあると知っていたような。
彼は少し驚いた顔をしてから、微笑んだ。

「 連れていってあげる 」

子供ながらになんの冗談だと思った。おとぎ話みたいで、現実味がなかった。そう言って流そうとした私を、彼は真っ直ぐな声で遮った。

「 ぼくは、君に嘘はつかない 」

今日会ったばかりなのに。なんて思いながらも、その言葉には不思議な重さを感じて。
幼い私には理由の分からないまま、胸の奥に落ちていった。

彼は私の手を取った。
指先は少し冷たく、それでも懐かしい温度だった。
そのまま、海へ向かって歩き出す。砂の感触が指の間を抜けていき、足首、膝、腰へと水位が上がっていく。
恐怖心は無かった、と思う。
私は泳ぎが上手いとはお世辞にも言えなかったけれど、海は好きだったしその日はよく晴れていて、水がどこまでも透き通っていたから。
ただ私の頭の中は放置されて絡まったコードのよう。
1から10まで言っている言葉が理解できない。
そして理解できないことを理解しようとする感覚だけが、頭の中を満たしていった。






そんなことを考えていると。
いつの間にか海水は首元まで来ていた、彼は立ち止まり、私を見た。

「 信じて 」

声は鼓膜に柔らかく触れた。
私はその目を見ながら、ただ頷いた。
理由は分からなかったが、それ以外の選択肢が存在しないように感じた。
その答えに満足したというように笑った次の瞬間、彼は勢いよく潜った。
反射的に目を閉じたが、息を止めるタイミングが一瞬遅れて、胸がきゅっとなった。


――「苦しい」


そんな感覚が、ほんの一瞬だけ脳をよぎった。だがそれは波のように静かに消えていく。
水は肺を侵さず、胸は穏やかに上下している。恐る恐る目を開けると、そこには確かな世界があった。
青は深く、しかし暗くはない。柔らかな光が上から降り注ぎ、海の底は静かな広がりを持って存在していた。
海藻が歌うように揺れて、珊瑚は時間そのものを形にしたかのように佇み、私の周りを魚たちが輪になって泳ぐ。音はなく、代わりに心臓の鼓動が、世界と調和していた。

彼は笑顔のまま私の手を引き、岩場の間を進んでいく。そこには確かな温もりがあり、守られているような、そんな安心感に包まれた。
私はそこで、どれほどの時間を過ごしたのか分からない。ただ、失われていた何かが、静かに満ちていくのを感じていた。









やがて、彼は立ち止まった。

「 またここに来て。ぼくは待ってるから 」

声は遠くで、でもどこか近かった。
私が尋ねる前に彼はふっと笑って言った。

「 忘れてもいいよ。覚えていなくても__ . 」

気がつくと、私は海辺の岩場に横たわっていた。
夕暮れの空が赤く染まり、
遠くから両親が私を呼ぶ声が聞こえる。
海は何事もなかったように、ただ波を返しているだけ。

あの子はもうそこにはいなかった。
砂の上には足跡が一つ、海へと続いていた。
私はその跡を見つめて、波の音を耳に刻んだ。

全て幻だったのだろうか。

―― それとも、








それから長い時間が過ぎてしまった。
私が時々海を思い出すのも、通り過ぎる潮の匂いに、ふっと視界が揺れるのも、夢の中で波の中へ戻ることもあれば、駅で見かけた誰かの横顔に胸が刺されることがあった、日常の端々で、重なり合った夏の断片が顔を出していた。その全てが私の記憶だった。

彼の声も、顔も、ほとんど忘れてしまった。
けれど。

忘れていた約束をなぞるように
私は海の方へ足を伸ばす。
岩場に腰かけて、砂粒を指で集めては落とす。
ふとした時、思いがけずその手が私の掌に触れた気がして、心臓が跳ねる。振り向くと誰もいない。ただ潮が笑っていた。再会を約束された場所を見つめ、目を閉じて、心の中で確かめるように呟く。
































—— あなたは、いるのよね。

「 海の底に 」

1/21/2026, 11:00:02 AM