『不条理』
自分が嫌いだ。いや、正確には好きでもある。
この矛盾こそが、生きて息をしているという証なのかもしれない。
朝、鏡の前に立つ寝癖だらけの自分を見てはため息をつき、うまくいかない現実に落ち込んで、どうしようもなく自分が嫌になる時がある。
けれど、帰り道に見つけた小さな野花にふと立ち止まれることや、誰かのために淹れたコーヒーの香りに心底ほっとできる自分のことは、少しだけ誇らしく思えたりもするのだ。
嫌いな部分と好きな部分が、まるでつぎはぎの毛布のように私を包んでいる。
不器用で、いびつで、決して完璧ではないけれど。冷たい風が吹く日には、その不恰好な毛布が案外あたたかいことに気づく。
どうしようもない欠点ばかりが目につく日もあれば、ほんの小さな優しさに自ら救われる日もある。私はきっとこれからも、この厄介で愛おしい自分と付き合っていくのだろう。
そんな不条理も、悪くない。
『怖がり』
新しい靴は、まだ足に馴染んでいない。 少し歩幅を広げるだけで、アスファルトの上でぎこちない音が鳴る。
幼い頃から、僕は常に安全な道ばかりを選んできた。石橋を叩いて、結局渡らないような人間だ。傷つくことや失敗することを極端に恐れる、筋金入りの「怖がり」である。
今日から始まる新しい生活。見慣れない街並み、初めて降りる駅、そして目の前にそびえ立つ真新しいゲート。 周囲では、期待に胸を膨らませた人々が足早に通り過ぎていく。その中で、僕だけが足の裏を地面に縫い付けられたように動けずにいた。
「やっぱり、僕には無理なんじゃないか」 弱気な感情が胸の奥で渦を巻く。引き返すなら今だ、という甘い誘惑が頭をよぎり、思わずうつむいたその時だった。
ふわりと、どこからか桜の匂いを孕んだ空気が通り抜けた。
春風が、怖がる僕の背中を押す。
それは、ほんの僅かな風の力に過ぎなかったけれど。まるで「大丈夫だ」と誰かに言われたような気がした。
冷たかった指先に少しだけ力が戻る。 完全に恐怖が消え去ったわけではない。それでも僕は一つだけ大きく深呼吸をして、まだ見ぬ世界へと、ぎこちない一歩を踏み出した。
『星が溢れる』
夜の静寂が、冷たい風とともに頬を撫でていく。見上げた空は淀んだ雲に覆われ、期待していた流星群はおろか、瞬く光一つ見つけることはできなかった。
握りしめた手のひらには、もう戻らない時間だけがひっそりと残っている。言葉にできなかった後悔や、手放してしまったものの重さが、胸の奥で静かに、けれど確かに渦を巻いていた。いくら空を見つめても、そこに答えも慰めもないことはわかっていたはずだった。
ふと、視界がゆらりと歪んだ。
暗闇に沈んでいたはずの景色に、無数の小さな光が灯り始める。それは瞬きをするたびに輪郭をぼやけさせながらも数を増し、冷たい夜を優しく照らすようにきらきらと輝いた。
見えなかったはずの光景が、今、私の目の前に広がっている。
頬を伝い落ちる熱い雫が、街灯の微かな光を反射して煌めいていた。
溢れる涙が星に見えた。
『安らかな瞳』
人の目を見て喋れ。そういう言葉が世にはある。
けれど、その正しさが時に少しだけ、息苦しく感じられる日もある。伏せた視線の先にある戸惑いや、言葉を探すためのささやかな静寂を、許してはくれない響きを含んでいるからかもしれない。
だからこそ、おずおずと顔を上げたとき、そこに穏やかな光を湛えた瞳を見つけると、ふっと心の強張りが解けていくのがわかる。
射抜くような強さでも、見透かそうとする鋭さでもない。ただそこにあるのは、冬のひだまりのように柔らかな輪郭を持った眼差しだ。焦らなくていいよと、言葉よりも先に伝えてくれるその瞬きは、こちらの不器用な沈黙ごと、そっと掬い上げてくれる。
無理に目を合わせようとしなくてもいい。自然と視線が交わったその一瞬に、静かな安心を分け合えること。それこそが何よりの対話なのだと、その安らかな瞳は教えてくれる。
『ずっと隣で』
昔のことを思い出すと、自分のことを少しだけ別の人のように感じてくる。
今ではしないことやできないこと、逆に今だったらやるのにとか、そういう今の自分と違うところがたくさんあって、そういうところを振り返る度に、今の自分とは違うなと思う。
でも同時に、今と変わらないなと思うところもたくさんあって、やっぱりこれは自分なんだ、好きなところも嫌いなところもあるけれど、浮かんでくるあの景色は、紛れもない自分の記憶なんだと再確認すると、心がキュッとなったり、あったかくなったりする。
例えば、あの時うまく伝えられなかった言葉や、不器用だった振る舞い。思い出すだけで少し俯きたくなるような不格好な日々も、不思議と今の自分を形作る大切な一部になっている。
きっと、過去の自分はどこか遠くへ消えてしまったわけじゃないんだと思う。
目まぐるしく変わっていく景色の中で、新しい自分に何度も上書きされているように見えて、本当はただ、同じ道を少しずつ列をなして一緒に歩いているだけなんだ。
嬉しかったことも楽しかったことも、悔しくて泣いた夜のことも、全部抱えたままの「あの頃の自分」たちが、今の自分のすぐ隣で、静かに寄り添ってくれている。たまにひょっこりと顔を出しては、こうして胸の奥を揺さぶっていくのだ。
だからこれからも、新しい日々の中で迷ったり立ち止まったりした時は、ふと心の中で隣を見てみようと思う。
そこには間違いなく、不器用ながらもここまで歩いてきた自分の確かな足跡と、そっと背中を押してくれる変わらないあたたかさがあるはずだから。