あの頃のあたしって。
常に何かにイライラしてて、目に映るもの全部敵だと思ってた。
当然好きなものなんてないし、毎日に希望なんか欠片もない。何のために生きてんのかなーって、他人事のように思ってたわけ。もともと生きることに執着薄かったしね。
こんな人生いつ終わったっていーや、って思ってた。でもってそんな日は、誰にも気に掛けてもらうことなく静かに死んでくんだろうなって。
そんなふうに、ついこないだまで思ってたんだよ。自分は生きる価値ナシって。まるで呪文のように呟いてたの。
それがあなたと出会って全部ひっくり返った。夢とか希望とか、バカ過ぎて口に出すのもイヤだったものたちを考えるようになった。
そのことも物凄い成長だけど、何より1番の変化は、愛というものを知った。
大切な存在ができた。愛を叫びたい人がいる。それって私にとって革命って呼んでもいいくらい凄いこと。あの頃の私に見せてあげたいよ。人はここまで変われるんだってところをね。
愛はひとりじゃ見つけられないし作れないから、あなたには本当に感謝してる。こんなあたしのこと、見捨てずに助けてくれてありがとう。あなたはあたしの恩人。大切な人。愛してる人。
あなたがいなかったら今のあたしはなかった。だから、こうして生まれ変わった今だから、これからはあたしがあなたに目いっぱいの愛を与えたいと思う。愛は見えなくて分かりづらいものだけど、あなたに届くように、これからもずっと、叫び続ける。
こうやって芝生の上に寝転ぶのは子供の頃以来だろう。たまには空を見上げるのもいいもんだと思った。そうすることで、自分のちっぽけさを感じられる。今抱えてる悩みとか不安が、この青に呑み込まれていくような不思議な感覚を味わうのだった。
時々、言葉が心に追いつかない時がある。あの人を失ったのもそれが原因だったのだろう。だから間違いなく僕のせいだ。それを思っては塞ぎ込む毎日だった。総て忘れて、あの日の僕らに戻れたなら。何度も何度も願ったけどそんなことは叶うはずがない。時間は巻き戻せない。人生はやり直せない。それを今、寝転んで見上げる青空に言われているような気がした。
不意に白いものが視界に入り込んでくる。ふよふよ浮遊する正体はモンシロチョウだった。壮大な青の中に白く小さなその生き物が映える。僕はたたじっと見つめていた。一定の決まりもないその動きは、自然と僕の興味をひくのだ。
その蝶が、何故かあの人と重なった。無軌道に動く様子も、小さくて白いところも、音もなくどこかへ飛んでいってしまうところも。似ているところが多すぎた。僕は咄嗟に手を伸ばすけど、所詮捕まるはずがなかった。容易く僕の手をすり抜けて、その白い小さな生き物は行ってしまった。こんなところまであの人と似ているのか。嫌だな。春が嫌いになりそうだ。
好きでもないのに青いカーテンにしたり、世話するの面倒くさいのに観葉植物置いてみたり。今までこんなにインテリアについて興味なんて沸かなかったはずなのに。なんでかな、手に取るものが自然とそういう類いのものばかり。
これはもう間違いなく君の影響だ。君が好きな色も、植物も何もかもを僕は覚えている。記憶は未だ、消しきれていない。
そんな簡単に忘れられるものじゃないって分かってはいたけど、まさか生活感の中にまで浸透していただなんてなかなか質が悪いとは思ったよ。これじゃ、忘れたくても忘れられないじゃないか。忘れたのは本来の僕の好きなもの。僕は本当は何色が好きだったか。どんな緑をリビングに置こうと思ってたのか。思い出せない。思い出そうとすると君の笑顔がそれを阻むから。こんなに優しい悪夢は初めてだ。僕はこの先もずっと君のことを忘れられないんじゃないか。いつか笑って話せるくらいになれたらいいな、くらいには思っていた。でも実際はそんな簡単な問題じゃなかった。こんなにも、君が僕の記憶の中に棲み着いている。これじゃいつまで経っても忘れられない。
否、君のことを忘れるのが怖いよ。
五月雨という雨がある。5月に降る長雨。梅雨の意味も含まれてるらしい。
1年前の今日の私の日記には、雨が鬱陶しくて体調を崩していた様子が書かれていた。雨が嫌い。ジメジメするのも匂いも音も何もかも。1年経ってもそれは相変わらずで、大型連休が終わって心も少しぽっかりしかけた時にこの天候はなかなか身体にくるものだ。
けれど今年は雨のせいだけじゃない。落ち込んで塞ぎ込んでいる理由。去年は隣にいた貴方が今年はいないから。寂しさからの体調不良なんてあり得ないものだと思っていたのに身をもって体験してしまった。1年前の私が見たら驚くと思う。1年後の私はこんなにも恋愛に真剣になっていたこと。会いたい人に会えなくなると、こんなにも弱い人間になるということ。
辛いけど、寂しいけどこれもちゃんと書き留めておかないと。来年の私が生きるための道標にするかもしれないから。
来年の今ごろはせめて、雨を克服できてればいいな。それとあと少しだけ、強くなれてたらいいな。
その人はお客の僕なんかよりもずっと満面の笑みで迎えてくれた。シェフ、というかパティシエらしい細長い白い帽子を被ってガラスケースの中のケーキたちをひとつひとつ僕に説明してくれた。
「これはソースの中に甘夏のジュレが入ってるの。ちょっとほろ苦いから、大人の人に人気かな」
何だそれ。僕にはまだ早いって言うのか。でも実際、今日は甘くて濃厚なかんじのケーキが食べたかったから参考になった。
「こっちの、2段目の真ん中にあるのが今月から新しく並べてるケーキ」
「へぇ。どんなケーキなんですか?」
「ふふふ。これはねぇ」
パティシエであり店長のお姉さんがガラスケースの中からケーキを出して近くで見せてくれた。そばで見るときらきら何か光沢があるようにも見える。きっとかかっているチョコのソースに秘密があるんだろう。
「あー、待って言わないで。それにします。食べながら当てるから」
「そお?じゃ、これにするのね」
お姉さんは鼻歌交じりにケーキを箱に詰めてくれた。あんなこと言ってみたけど、隠し味は何なのかだなんて、今回も僕は当てられない気がする。お姉さんの作るケーキはまるで秘密の玉手箱みたいなんだ。絶対に他では食べることができない、かっこよく言えば唯一無二って感じの。
「はい。また感想聞かせてね。オマケも入れといたからね」
「ありがとう、ございます」
にこにこな笑顔で、僕に小さな白い箱を手渡してくれた。いつも僕の感想を心待ちにしてくれてるお姉さん。そこには他意はないかもしれない。もちろんちゃんと感想は伝えるさ。そのために次回もここへ来るんだ。僕だって他意はない。それ以外は、考えちゃいない。
でもなんでだろうな。
僕が“美味しかった”って言った時、この人がすごく嬉しそうに笑うから。また見たいなって、思ってしまうんだ。だから明日も明後日も、僕はここのケーキを食べたくなる。虫歯になっても自業自得さ。それくらい好きなんだ、ケーキがね。