息せき切る、という体験をしたのはこれが初めてかもしれない。待ち合わせ時間まであと3分。やばいやばいやばい。地下鉄を降りて一気に駅構内を走り抜ける。途中で誰かと肩がぶつかって舌打ちされた。振り向いてる暇が無いのですいませーん、と大きく叫んでまた階段を全速力で登りだした。
地上に出ると外はもう真っ暗で。しかもちょっとだけ風が吹いていた。僕はスマホを取り出し時間を確認する。ジャスト0時。こんな時間に呼び出してもちゃんと来てくれるキミ。駅のすぐそばの喫茶店のカウンター席に姿を見つけた。急いで、でも息を整えつつ彼女の待つ店内へと入る。
「ごめん、おくれた」
「あ。お疲れ様」
彼女が僕のほうへ振り向いて。僕の姿を確認したと同時に僕の手もとへと視線を移した。
「ごめん、急いで来たからちょっとだけ散っちゃった」
胸元のほうにまで手にしていた花束を持ち上げる。そして驚く彼女へ緊張しながら差し出した。
「合格おめでとう。あと、誕生日おめでとう。それから、1年記念日おめでとう」
「わあ……」
3つのおめでとうを伝えたあと、彼女の目がきらっとしたように見えた。両手で花束を受け取る彼女の手に触れた時、すごく暖かくて柔らかった。
「ありがとう。うれしい」
「うん。その……おめでとう」
無事に渡し終わったら急に燃え尽きたような感覚になって、その先の言葉がうまく出てこなくなってしまった。大変なこともあるけど頑張ろうね、これからもよろしくね、まだまだいろんな所に遊びに行こうね。溢れる気持ちは止まらないはずなのにどうしてか言葉で上手く出てこない。もしかしたら緊張してるのかもしれないな。だけど花を見つめて優しく笑うキミを見られたから、僕はもうこれ以上無い幸せ者だと知ることができたよ。
「とりあえず、何か飲む?」
「うん」
僕は彼女の隣に座ってメニュー表を広げた。特別な日を演出したい気持ちもあったけど、やっぱりこうやっていつものように並んで大好きなドリンクを飲むのがいいね。
「いつもありがとう」
せめて最後にこれだけは伝えて、僕らは真夜中のホットココアで乾杯した。
「ビッグマックにサイドメニューはポテトで。あ、ポテトLサイズに変更してください。ドリンクはコーラ。それとこのクーポン使ってナゲット5ピース。ソースはバーベキューで。と、あと三角チョコパイもこのクーポンでお願いしまぁす。あー、あと単品でフィレオフィッシュ」
一体どんだけ食うんだよ。
凹んでるから奢れ、って、不躾なメールが深夜に届いた。無視をするわけにもいかないから家を訪れてみれば、
「お腹減っちゃった。マック行こ」
俺を呼びつけ、足にして、奢らせる。で、極めつけには自分の分だけさっさと注文する。しかも量が半端じゃない。とんでもねぇ女だな。呆れを通り越して感服しそうだ。
「で?何が原因で俺はこんな夜に振り回されてんだ?」
運転する俺の隣で黙々とジャンクフードを食べる彼女。人の車なのにちっとも気を使う様子はない。
「あー……呆れない?」
「内容による」
「じゃあ言わない」
「お前なァ……。そもそも、こんなに世話を焼いてやったのに礼の言葉も無しか」
「それは感謝してるよ!ありがとう、ごちそうさま」
「ったく」
別に、理由なんてどうだっていい。マックでそんなに笑顔になれるんなら安いもんだ。そうは思っていても口には出さなかった。それを伝えたらコイツはまた調子に乗るし、しかもなんだか、癪だ。
「お礼にポテト分けてあげるね」
「要らねぇよ」
「なんでよ。美味しいよ?夜中のジャンク。背徳感やばくて」
次から次へテンポよく彼女の口の中へポテトは消えてゆく。どうせ明日になって、“顔が浮腫んで外出られない”とか喚くに決まってる。いつだってそうだ。コイツの行動は突発的なものばかり。少しは先を読んで行動すりゃいいのに。
「おいしいよ」
「そうかよ」
「うん。しあわせ」
信号が赤になって隣を見る。相変わらずポテトにうっとりする助手席のお前。羨ましいとか、美味そうだなんて少しも思わない。けどなんか、ここまで振り回されて俺にはご褒美の1つも無しかと思うと、それはそれで苛つく。
「ねぇ。青だよ」
それには答えず、彼女のほうへぐっと顔を近づける。暗がりの中で、グロスなんだかポテトの油なんだか分からない艶を持ったその唇を塞いだ。当然、しょっぱい味がした。
「こんな塩っぽくちゃムードも台無しだな」
そして何事もなく再びアクセルを踏んだ。彼女は何も言わない。きっと、不意をつかれて固まっているに違いない。呑気に食ってるからだよバーカ。少しは俺のことに興味を持ちやがれ。
次に赤信号に止まる時、お前の唇はどんな味になっているだろうか。どうせジャンキーなものでしかないんだろうが、せめて、油っこいポテトは控えろよ?
あまり現実離れしたことは言わない主義だけど、
貴女のこと、1000年先も守るから。
絶対に悲しませたりしないと誓うから。
だから僕を選んでくれないか。
貴女じゃなきゃ、駄目なんだ。
行ってきます、というメモ書きと1輪の花がテーブルには置かれていた。
嫌な予感はしてたんだ。この頃口数が少なかったから、どっか具合でも悪いのかなくらいに思ってたけど。
そんなに悩んでいたんなら教えてくれよ。君の夢を真っ向から否定したりしないよ。やりたいようにやればいい。そう言ってちゃんと送り出すつもりでいたよ。
なのに、別れの言葉も言わせてくれないのかい。ずるいよ、君は。
コップに水を汲んで君が残した花を挿した。いくらかもう萎びている。青い花がまるで君の瞳の色を連想させる。
この花は何て言うんだろうか。
知りたいのに、教えてくれる君はもういない。
知らなかった。カイトが、春に転校するなんて。
なんでもっと早く言ってくれなかったの。私はカイトの胸ぐらを掴んでそう言って責めた。そしたら、いつもみたいにへらへら笑って何か憎まれ口たたいてくるかと思ったのに。
「……ごめん」
全然違った。彼は見たこともない悲しそうな顔で、私に謝ってきた。こんな彼は知らない。見たくもない。いつもみたいにバカ言ってふざけて笑ってよ。あんたに真面目な顔なんて似合わないよ。転校なんて、嘘だって言ってよ。色んなことが信じられなくなって、私はカイトの前から逃げるようにして去った。それからもう3週間くらいが経とうとしている。私のほうが一方的に避けるようにしていた。こんなことしても、カイトが転校する事実は変わらないのに。もう会えなくなっちゃうのに、何やってんだろう、ほんと。それを考えるとまた変な意地が顔を出してきてしまう。素直にごめんって言えたら良いのに。
ウジウジしていたらあっという間に1か月が経ってしまった。もうすぐ冬が終わる。この時期になるとカイトが転校するという話はもう学年じゅうが知っていた。寂しいねー、ってみんなが言っている。私だってその1人。寂しいだけで伝えきれないくらい、心が落ち込んでいる。幼馴染ということが尚更尾を引く。私とカイトはあまりに近すぎたんだ。何でも言い合える仲で、信頼しきっていた。当たり前のようにずっと一緒にいられると思っていた。このままお別れになっちゃったら、私どうなっちゃうんだろう。それくらい依存してしまっていたことに気づいてしまった。ねぇ、カイト。行かないでよ。私のそばにいつまでもいてよ。
『いつもんとこで待ってる』
塞ぎこんでいた土曜の昼間。カイトからこんなメールがきた。いつもの所というのは、私たちが幼い頃によく遊んでいた公園のこと。呼び出された私ははじき出されたようにそこへ向かった。早く会いたくて、気づいたら走っていた。公園に着くとカイトがちゃんといた。ブランコに乗って、ぼーっとしていた。私に気づくと、「よっ」といつものノリで手を振ってきた。
「急に何」
もう、駄目だなあ私。本人を前にするとまた意地っ張りが出てきてしまう。これが最後かもしれないのに、どうして素直になれないの。
「俺、ツバサのこと好き」
「へ」
「こんなんで、お前と会えなくなるの認めたくねーわ」
いきなり何言ってんの。私が言い返すより前にカイトは隣のブランコを指差す。座れ、って意味らしい。大人しくそこへ腰掛けると、カイトは私のほうにぐるりと向き直る。
「転校はやめらんねぇけど、お前とはこれからもずっと会いたい」
「……うん」
「俺、ツバサのこと好きだから」
カイトはさっきと同じ言葉をもう一度言った。そして、立ち上がるとちょっと強引に私を引っ張って立ち上がらせる。
「これでサヨナラになんかさせてたまるかよ」
ぎゅっと私のことを抱きしめて、何かに堪えるような声でそう言った。ごめん。私と同じ気持ちだったんだね。私もあんたも寂しかったんだね。それが分かって、でも離れる事実は塗り替えることができないツラさに初めて涙が出た。
「もっと……早く言えば良かった……」
震える私をカイトは何も言わずただぎゅっと抱きしめてくれた。意地張ってたあの時の時間を激しく後悔した。ブランコが風に揺れてキィキィ鳴る音がより一層寂しい空気を連れてくる。
「ちゃんと連絡するから」
「うん」
ありがとう。私の欲しかった言葉を言ってくれて。素直に言えない代わりにカイトの首にしがみついた。絶対、また会おうね。だから私もサヨナラは言わないから。それでまた会えた時までにはちゃんと、ありがとう言えるようにしておくから。だから、勝手だけど今は泣かせて。