放課後、誰もいなくなった教室。
窓際の後ろから2番目の席に近寄り、私は座る。
そこは私の席じゃない。あの人のだ。彼はサッカー部のエース。成績優秀で背が高い。笑うと笑顔がとっても爽やか。非の打ち所がまるでない彼はみんなから人気者。でもやっぱり、女子からの熱い視線はものすごい。
そんな私も、彼に熱い視線を飛ばす女子のひとりで。
同じクラスなのにたいして喋ったこともないけど、いつしかあの笑顔にやられてしまった。一目惚れってやつだとおもう。別に、この気持ちは届かなくてもいいや。あんなにライバルがいるんだから無理だと分かってる。だからこれからもひっそりこっそり応援したいな。
そんなふうに、自分の気持ちを見限ってるのに。こうやってひとりきりの教室になるとどうしても抑えられなくなる。ここに座って彼は、現代文の授業で先生に指されて音読してた。1度も噛まずにすらすらと。あぁかっこいいなぁって思ったんだ。私の席は1番前だから授業中の彼の顔は見れないけど、きっといつもどおりの爽やかさが溢れてたんだろうな。
制服のブレザーの胸ポケットからボールペンを取り出す。そして、彼の机の角に小さく自分のイニシャルを書いた。細かな傷があるから、これくらいなら目立たないだろう。
コソコソこんなことしてて、いつかバレたらどうしよう。面と向かって言える勇気がまだないの。いつかそんな日が来ればいいなと思ってるけど、多分きっと、無理だと思う。何もしてないうちから諦めるなんて情けない話だ。こんなに好きなのに、自分じゃどうにもできなくてもどかしい。
そっと書いたイニシャルを指でなぞりながらため息を吐く。まだもう少しだけ、あなたのことを好きでいさせてね。
列車の揺れはとても心地が良い。いつの間にかうたた寝してたみたいだ。不意に目を覚まして車窓の向こうを見た時にはすっかり見慣れた景色になっていた。
「懐かしいなあ」
変わってないかな。あの店も、あの場所も、そしてあの子も。変わっていないといいな。そりゃあ完全にあの時のまま、なんてのは無理だけど。あの店のパンが最高に美味しくて、あの場所が最高の昼寝スポットだった。そしてあの子の笑顔は最高に可愛かった。あの時の記憶のまま、今も存在してくれてたら良いな。
期待に胸を膨らませ列車を降りる。見た感じはあの時と変わらない駅の改札。でも所々変わったところを見つける。壁が綺麗になったりとか、流れる音楽がショパンからサティになってたりとか。ちょっとずつ変わっているものを発見するたび新鮮な気持ちになる。
そして、キョロキョロしている僕に声がかかった。
「おかえり」
この声、知ってる。柔らかく優しい声。懐かしいなあ、嬉しいなあ。顔が緩んでしまうのを隠すことなく僕は振り向いて、言った。
「ただいま」
あの時と変わらない最高に可愛い笑顔が、そこにあった。良かった、君は変わらずにいてくれて。僕はこの街が大好きだ。改めてそう思った。
あの子はいつも僕に優しい。だから絶対に僕に気があるんだ。そんなこととっくに気づいてるよ。なのに、いくら待ってもあの子は僕に告白しようとしてこない。チャンスをあげようと思って、「今日一緒に帰る?」って誘っても友達と帰るからいいと断ってきた。なんだそれ。僕のこと好きなんだろ?だったらできるだけ僕のそばにいたらいいじゃないか。なのに君は涼しい顔して僕の誘いを受け流す。どういうつもりなんだよ。僕のこと本当に好きなの?
だから今日、あの子の後をつけてみた。彼女が言ってた“友達”なる子達と校門を出るところだった。多分、同じクラスの女子。何かを楽しそうに話していて、みんなでいきなり爆笑したりよく分からない歌を歌いだしたり。僕に見せるあの笑顔をそのままみんなにも振りまいている。つまり、あの子は僕だけじゃなくてみんなにも同じように優しいというわけだ。
これが女子の友達になら納得がいったと思う。けど僕は信じられないものを見てしまった。どこから現れたのか、女子グループに合流してきた男子にまであの子は笑いかけている。ソイツがわけ分かんないことを言って飛び跳ねるのを見て、彼女は全力で笑っている。目じりには涙を浮かべるくらいに爆笑している。そんな顔見たことなかった。なんだかいつもよりいきいきしている。嘘だろ、と思った。
僕に優しいから僕のことが好き。
そんなわけがなかった。あの子はみんなに優しい。そして、みんなのことが好き。男にも女にも、分け隔てなく接する彼女は、僕のものじゃないんだ。
くやしい。彼女の優しさを好きの気持ちだと勘違いしてたことが恥ずかしい。チクショウ、と呟いて彼女の尾行をやめた。踵を返す僕の背にまた、彼女らの楽しげな笑い声が降ってきた。
深夜0時ジャスト、1件のメッセージを受信した。送り主はただ今絶賛喧嘩中の彼女から。
これは、もしかして。淡い期待が胸に広がる。何を隠そう日付が変わって今日は僕の誕生日なのだ。だからきっとそういう内容のメッセージに違いない。そう思って操作したスマホ画面。だがそこには考えてもみなかった言葉が表示された。
“さようなら”
どういう意味か、最初はよく分からなかった。言葉の意味じゃなくて何故このタイミングで、という意味合いで。だって、今日は僕の誕生日だろ。喧嘩してたことに対してのごめんねとか、誕生日おめでとうとか、そういう言葉をくれるんだと思ってたのに。
「最高の誕生日プレゼントだな」
口をついて出る言葉は皮肉しかなかった。無意識に、辞めた煙草に手を伸ばす。何の音もしない自室で、煙をくゆらせながらスマホを操作する。
さようなら。
僕も全く同じ言葉を送ったあと、そのまま彼女の連絡先を消去した。
安心なこと。
食べていける仕事があること。
帰る家があること。
愛する人がそばにいてくれること。
でも、もしも、
突然職場が倒産したらどうしよう。
家が火事に巻き込まれたらどうしよう。
あの人に別の好きな人ができたらどうしよう。
安心材料だったものは、ふとした時に不安なものへと化ける。
何だってそう。
些細なものでも、安心と不安が隣り合わせにある。
だからこそ。
“安心”なものを、当たり前に思わないように。
“不安”の虚像を、勝手に創り出して塞ぎ込まないように。
一歩一歩踏みしめて、安心を与えてくれるものに感謝して、不安にさせるものに打ち負かされないように生きてゆきたいよね。