音楽室のピアノの前に彼女はいた。座っているだけで弾く素振りはない。僕の立っているところからだと顔は見えないけど、きっと泣いてるんだろうな。
「おつかれさま」
僕の声にはっとした彼女は勢いよく顔を上げる。でもこっちを向こうとはしなかった。
「探したよ。帰ろう?」
「……うん」
返事はしたけど、彼女は立ち上がろうとしなかった。再び鍵盤を見るように俯く。
「ダメだった。選ばれなかった」
「そっか」
「でも、全力出し切ったから、いいの」
「なら、自分を褒めてあげようよ」
「でも……くやしい」
学内で1人しか選ばれないのだから、それはそれは狭き門だ。ピアノなんてさっぱりな僕でもそれくらいは分かる。課題曲なの、と言って今まで毎日僕に聞かせてくれたあの曲の難しさも、なんとなく分かる。でも、君が選ばれなかった理由は僕には分からない。技術的な点数配分なのか、審査した先生のフィーリングもあるのか、それは分からないけど。
「君の演奏は間違いなく素晴らしかった。僕の心が震えたもの」
彼女の背後にそっと立って肩を抱く。震える華奢な肩が愛おしくて。ゆっくりと彼女の顔を覗き込んだ。涙でぐしゃぐしゃの顔がこっちを向いた時、自然とキスをしていた。
「次は、負けない」
「うん。君なら絶対大丈夫」
僕の言葉に彼女はほんのり笑った。頬から流れるその涙がすごく美しいと思った。
「トドメだ」
勇者は剣を振り上げた。眼の前に崩折れる魔王に向かって。
――これで終わりだ。コイツを倒せば、またこの世界に平和が訪れる。そして僕は英雄になり、この先も、未来永劫僕の名は語り継がれるんだ。
「……何故トドメを刺さん」
その声で勇者はハッとした。そうだ。僕は今からコイツを殺そうとしていた。なのにどうして身体が動かないのだろう。コイツを討てば全てが終わり、皆が喜ぶというのに。
――本当にそうなのか?魔王の命ひとつでこの世界は元通りになるのだろうか。そんな、簡単なエンドロールで良いのだろうか。
自分で自分に問いかけてみても、そんなことさっぱり分からない。けど、ここであっさりとこの魔王を倒すことを躊躇してる自分がいた。
「どうした。ここに来て躊躇うというのか。それとも、俺様に情けをかけるつもりか?」
「違う。でも、世界を平和に導く方法に、お前を殺す選択だけじゃない気がするだけだ」
「フン。全くもって意味が分からんな。俺様を生かしたままで世界を治めようとでもいうのか。そんな真似、他の連中が許すわけなかろう。混乱を招きたくないのならさっさと俺様を殺ることだな」
魔王はもう戦う意志がないらしく、無防備に勇者の前で寝そべっている。本当に、やるなら今だ。だが剣を握る手は鉛のように動かなかった。
――もう、嫌なんだ。これ以上はもう、重ねたくない。
自分の心がそう叫んでいた。魔王が可哀想でも許したわけでもない。はっきり言ってコイツは憎い。でも、それでも。もうこれ以上血を浴びるような行いをしたくないと心が叫んでいた。それに気付いてしまったと同時に、勇者は戦意喪失してしまう。
「僕は、」
勇者だ。勇者は悪を倒すのが宿命。けれどその前に僕は1人の人間だ。これ以上はもう、無駄な殺生をしたくはない。
カラン、と音がした。剣が手から滑り落ちたせいだ。武器を手放した勇者は魔王に一歩近づく。
「僕は戦いを放棄した」
「……何だと」
「でもこの世界を平和へ導く気持ちは変わらない。それを、お前の命が有っても無くても出来るということを証明する」
「ハッ。とんだ世迷言だな。そんなことできるわけがない」
「できるさ。願えば、どんなことでも叶うんだ」
「おめでたい頭の持ち主だ」
「何とでも言え。絶対に、証明してみせるさ。そして、お前は俺のおかげで命拾いしたことがいつか正解だったと思わせてやる」
願えばなんでも叶うと思うのは浅はかだと言う者もいるだろう。けれど僕は証明する。強い願いが希望になるのだと。この世界は、救えるのだと。今にも昇る朝日に向かって、勇者はそう誓った。
「でさ、もうそっからみんなやる気なくなっちゃった」
「なんだそれ。明らかに担任のせいだろ」
「でしょー?うちら何にも悪くないってのにさぁ」
イオリは夕飯を食べながら今日あったことを話す。俺は先に食べてしまったから今は聞き役に徹している。今日、クラスであったことをひたすら話し出す彼女。何でも担任の女教師がマジで頼りにならないらしい。その愚痴を延々と聞かされている。けど別にうんざりする気持ちにはならない。むしろ、懐かしいなと感じてしまう。大学生になると、クラスで取り組む行事とか担任の先生っていうのがなくなっちゃうから。青春してんだなぁ、とさえ思えてくる。
「ちょっとアズサ。ちゃんと聞いてるー?」
「聞いてる聞いてる。けど、早く食べたほうがいいんじゃね?見たいテレビあるんだろ?」
「そうだった、それまでにお風呂入っちゃいたいんだ」
そこから急いで食べ、「ごちそうさま」と言いながら皿をかたし出す。俺が洗うからいいよ、と言うとイオリは嬉しそうに笑った。さっきまでの不満げな態度は何処へやらで鼻歌交じりに洗面所のほうへ消えていった、と思ったら彼女の驚嘆する声がした。すごーい、と叫ぶ声が聞こえる。どうやら湯船を見てくれたようだ。彼女が喜ぶと思って泡風呂を作っておいてあげた。こないだ一緒に出掛けた時に買ったアロマキャンドルも用意しておいた。イオリの好きなもの、喜ぶものは何でも知っている。どうすれば笑ってくれるのか、世界中で俺が1番分かる自信がある。
泡風呂に感激したのか、今日はわりと長い入浴時間だった。イオリは慌ててリビングに戻って来る。髪はまだ、生乾きだ。
「それじゃ風邪ひくぞ」
「だって見たいテレビ始まっちゃうんだもん」
火照った顔でソファのど真ん中に座りリモコンを操作している。そのそばに冷たいルイボスティーを置いた。
「ありがとう」
にっこり笑ったイオリの隣に腰掛けたら端へ寄ってくれた。
「ほら、まだ濡れてるって」
「拭いてー」
「ったくしょうがねーなぁ」
口ではそんなこと言うけど微塵も思っていない。この髪に触れられるきっかけを探していた。呑気にテレビに夢中になっている彼女に気づかれないように、タオルでその長い髪を包みこんだ。
キミの喜ばし方も、甘やかし方も俺が1番知っている。この先もキミを守ってゆける自信がある。その気持ちは誰にも負けない。
なのに。
なんで。
どうして、
俺ら“兄妹”なんだろう。
この現実を怨まない日はない。
「駅まで送るよ」
そう言って、先輩は私の斜め前を歩き出す。1人で平気ですと断ったものの、そんなこと聞いちゃくれなかった。
「さすがにこの時間帯に女の子1人で歩かせるのは心配になるよ」
にこやかに笑って言う1つ上の先輩。ずっと前から好きだった。でもこの気持ちを伝える日は来ないと思う。だって先輩には彼女がいるから。
「みんな盛り上がってて楽しかったなー」
「そうですね」
「きみもちゃんと、飲んだり食べたりできた?会費払ってるんだからもとは取っとかないと」
「もとは取れたか分からないけど、それなりに食べれましたよ」
今日は大学のゼミの飲み会だった。2次会に参加しない組はここで解散となった。私もその1人で、駅に向かおうとしていたところを先輩に呼び止められた。正直、この人は2次会に行くのだと思ってたからこんな形で呼び止められてびっくりした。先輩は普段からいつも気さくに話しかけてくれるけれど、ここまで距離が近いことは無かったから、今は嬉しさよりも緊張が強い。
「何線?」
「京王線使います」
「じゃ、俺と一緒だ。途中まで一緒に行こう」
同じ改札を通る時、先輩から仄かにいい香りがした。香水だ。私はそれにときめくのではなく、反対に気持ちが落ちてしまう。この香りは先輩の彼女さんと同じものだから。きっと2人でお揃いのものをつけてるんだろうな。それを思ったら、今のこの状況はこの先滅多にないことだな、と思った。憧れの先輩と一緒に帰るなんて夢のようだ。夢ならこのまま覚めないでほしい。ずっと見てたい。そう願ってしまうほど、やっぱり私は先輩のことが、好きで。
「みんなあの後どこ行ったんだろうなー。カラオケかな?」
「そうかもですね」
「だとしたら抜けてきて正解だったな。俺さ、めちゃめちゃ音痴なの」
「えぇっ、そうなんですか?」
「うん。内緒ね。きみにしか話してないから」
きみにしか話してない。それはかなりのパワーワード。私しか知らない先輩の秘密。それを得ただけで不思議な優越感が頭の中を埋めてくる。音痴な先輩可愛いな、より、私しか知らない先輩のとっておきの情報を手にした嬉しさのほうが勝っていた。
そんなふうに、簡単にこの人の心も私のものになったらいいのに。叶わない願いを思ってしまう。らしくない。今日少しお酒を飲んだせいなのかもしれない。自分の最寄り駅に着くまでこの人を独占できることが嬉しくて、でもどこか切なくて。これが夢なら良いのに。そしてそのままずっと覚めなければいい。そう思いながらも、やってきた電車に2人で乗り込んだ。
気づいてた。
もうキミは、あたしのことに興味ないんだってこと。分かってても知らないフリしてたの。だってあたしは今でもキミのこと好きだから。
あたしの気持ちを知ってか知らずか分からないけど、近頃キミはあの子とよく一緒にいるようになった。その現場をよく見かける。細くて綺麗で髪が長いあの子。正直、あたしなんかよりもずっとお似合いだと思うよ。きっと周りの誰もがそう思ってる。ここまで詰められたらもう、あたしがお別れを言うしかないじゃない。もしかしてキミはそうなるように仕組んでたの?ほんとはもっとずっと前から、あたしからバイバイしたかった?知りたいけど、聞く勇気がない。さよならをする決心で残ってたちっぽけな勇気を使い果たしてしまったから。
それでも情けない話まだ揺らいでる。キミをここへ呼び出して、待つ今この時間も心はぐらぐらしっぱなし。私がさよなら言わなければずっとこのままなのに。でもそれじゃダメだっていう気持ちと、キミがもう一度あたしのことを見つめてくれないかっていうものすごい低い確率の展開を願う気持ちがせめぎ合ってる。苦しいよ、この気持ち。楽になるにはどうしたらいいの。別れをとるしか、道はないの?