「君の考えはつまらない」
今日、上司に言われた言葉が、帰宅中も何度も頭の中をリフレインする。なにも皆の前で言わなくてもいいじゃないか。自分の提案を否定された悔しさと、皆にその現場を見られた羞恥心を同時に感じている。屈辱、無念、憤怒。あらゆる感情がぐちゃぐちゃになって私の中で渦巻いていた。
「ただいま」
もう仕事は終わって家路についたというのになかなか切り替えられない。どんよりした気分で家に上がると、先に帰っていた彼がリビングから顔を出した。
「おかえり。もうすぐでご飯できるとこだよ」
「あー、うん」
なんとなく、顔を見れなかった。彼はなんにも悪くないのに、脳天気なその顔を見たら八つ当たりしてしまいそうで。逃げるように寝室に入りコートを脱ぐ。先にお風呂入っちゃうー?暢気な声が部屋の向こうから飛んできた。それだけでイライラしてしまう。そんなふうに思っちゃいけないのに。
切り替えなきゃ。シャワーを浴びたら少しは心が落ち着けるだろう。浴室で服を脱ぎ、お風呂の蓋をとる。すると目に飛び込んできた黄色いものたち。
「なにこれ」
柚子が湯船にぷかぷか浮いている。ほのかに青臭さがどこか残る薫りが、浴室の中に漂っている。そっと身体を沈めてみる。
「あー……落ち着く」
ちゃぷちゃぷ揺れる柚子たちがなんだか可愛くて思わず顔が緩む。こういうことしてくれるのがまた、嬉しくて。そう言えば、なんで私落ち込んでたんだっけ。忘れしまうくらい、柚子湯は私を癒やしてくれた。お風呂から出たら彼にありがとうを言おう。でも、20個は入れ過ぎじゃない?
あたし、分かるの。自分の死期が近づいてるってこと。だからこのお家を出て誰も見てない場所で最期を迎えるの。
あの子はまだ幼稚園から帰ってきてない。だからここを出るなら今のうち。いつも帰ってきたらあの子、ママの言いつけをちゃんと守って手洗いうがいして、それからあたしのからだに顔をうずめにくるのよね。いつの間にか日課になってしまってる。それがもう無くなってしまうのはちょっぴり寂しいけど仕方ないわ。誰にも死ぬところを見せたくないから。挨拶も無いけどこのまま姿を消すわね。
散々毛玉吐いたり壁を引っ掻いたりしたけど、叱らないでいてくれてありがとう。生まれ変わったらまた、ここのお家の猫になりたいわ。あ、でも、あの缶詰はそんなに美味しくないのよね。だから次に巡り合うときはカナガンにして頂戴。
あら、幼稚園バスの音がする。それだけでクロミー、って、あの子があたしを呼ぶ声が聞こえてくる気がするわ。あんたは猫の何倍とこれから生きるのよ。立派なレディになりなさいよ。
さて。これからどっちの方向へ行こうかしら。どこへ逃げても隠れても、この空だけはあたしが死ぬところを見てるのね。今日も雲ひとつ無くっていい天気だった。あたしが死んだらこの大空の向こうへ逝くのかしら。そういえば確かあの子、空を飛ぶ猫、なんてタイトルの絵本を持ってたわ。まさしくあたしはそれになるのね。そう思うと、恐れるものなんて何もないかもしれないわね。
いい猫生だったわ。またどこかで会いましょ。
眼の前に焼け野原。
ついさっきここは空撃されたばかりで、あちらこちらに煙が上っていた。僕も、ここから早く逃げないといけないらしい。僕の身の安全を考えてくれる人がいないから自分で決めなくちゃならない。家族はこの前の襲撃で離れ離れになってしまった。生きてるのか死んでるのかも分からない。もしかしたら、あそこに広がってる瓦礫の下に埋もれているのかもしれない。それくらいひどい惨状があたり一面に広がっていた。
今日はクリスマスなんだって。誰かがさっき逃げながら言っていた。キリストの生誕日にこんな火の海の景色が見られるなんて悪趣味にもほどがある。こんな不幸な街には、どんなにいい子にしてようがサンディクローズもやって来ないだろうな。
遠くでまた、爆撃が聞こえた。誰かの悲鳴と男の人の怒号とサイレンが一気に聞こえてくる。ぐちゃぐちゃになって見事な不協和音を奏でている。聖なる夜に、こんな音楽が流れることがあるだろうか。祈りを捧げる日だというのに、誰もそれどころではない。ならせめて僕だけでも、神に祝福と敬愛を。
その場で寝転んで夜空を見上げた。コンクリートの上は固くて冷たい。最高に寝心地の悪いベッドの上でサイレントナイトを口ずさむ。なんだかベルの音が聞こえてきそうだ。地上はこんなに荒れていても空はいつものように綺麗なままだった。
「Silent night , Holy night...」
あのどれかの星が、僕のもとへ落ちてきてくれないかな。そして願いを叶えてくれないかな。もうこんな日々は嫌だ。プレゼントもご馳走も要らない。代わりに早く戦争を終わらせて。もし来てくれたら、僕はそう願うんだ。
君と喧嘩してから今日で1ヶ月。原因なんてもう忘れたけど、多分僕に理由があるんだろう。
ああ、そうだった、僕がなんでもないふうに言った言葉を君が本気にとらえたんだ。そんなにムキになるなよ、って言ったら君は目をひん剥いて怒り出した。まさしく火に油を注いだわけだ。
別に、そんなに気にする話でもないだろう?冗談がわからないのかよ。先週だって、『週末晴れらしいからどっか行かない?』って送ったのに君はまるで無視だ。だからこうして1ヶ月経ってしまった。何なんだよ。僕もそろそろ黙ってないぞ。もしかして、僕が謝るまでその態度を続けるつもりなのか?なんでだよ、僕は悪いことなんかしてないのに。マジになった君も君だろ。だからお互い様ってわけだ。
なのに、それでも無視を決め込むってのなら僕だって苛々するさ。もういい加減にしてくれよ。せめて電話には出て。兎にも角にも、話をしないことには解決しないだろう?
君がこんなだから、寝ても覚めても君のことばかり考えてる。でも、不思議と憎悪とか苛立ちみたいな負の感情ではないんだ。ただ君に許されたいだけ。じゃないと、この得体のしれない感情がもっと成長してしまう。君に触れたい声が聞きたい。そう思ってやまないよ。なんていうんだい、これは。独りでいるのはもう沢山だよ。
『今年の冬は帰れそうだよ』
今朝起きたら届いてたメール。夢じゃないかって、本当にあなたからのメッセージなのかって、何度も何度も見返した。多分、20回くらいは朝の1時間で見返したと思う。それくらい嬉しくて、浮かれ気分になりながら朝の支度をしてたら危うく遅刻するとこだった。
もちろん、私はすぐに返信した。いつ帰ってくる?どれくらいこっちいるの?今月は無理なのかな?全て質問で送った私のメッセージに返事が来たのは夕方になる頃。仕事が忙しいのが分かってるから文句なんて言わないけど、早く返事来ないかなあとはずっと思ってた。返ってきたメッセージは、
『どこに行きたいとか、考えておいて』
という一文のみ。
どこに、行こうか。
あなたと遊びに行きたい場所はいっぱいある。冬の時期だけしか見れない場所や、普通に1日中遊んでいられる場所にも行きたい。沢山ありすぎて絞れないや。それくらい、あなたの帰りが待ち遠しい。でも、とりあえずはいつものカフェテリアに行きたいよ。そこであなたはいつもコーヒーを頼む。ブラックかと思いきやお砂糖2つも入れちゃう甘党なの、私だけが知っている秘密。
そんなこと考えてたら、今以上に会いたくなった。早く帰ってこないかなあ、と冬の空に独り言を呟きながら私は家路に向かってます。今年の冬は一緒にいろんなところに行こうね。