もそもそとベッドサイドに手を伸ばす。感触で携帯を探し当て眩しい画面を起動させた。朝の9時をまわったところだった。鈍い足取りで寝室を出てリビングへと向かうが、たどり着く前に廊下で見事にぶつかった。
「きゃ」
「うわ、ごめん」
彼女は僕をひと睨みだけして再び忙しなく動き回りだした。今日もびしっと決まったスーツ姿で、今は洗濯物が入ったカゴを抱えながらベランダのほうへ向かう。僕もそのあとを追った。
「洗濯ならやったのに」
「いい。起きてくるの待ってたらいつになるか分かんなかったし。代わりにゴミ出しお願いね。朝ご飯も早めに食べちゃって。掃除機はかけられたらかけてほしい」
一息に言いながら手を止めることなく洗濯物を干している。彼女が家を出る時間まであと10分そこら。僕は言われたとおりトースターに食パンを放り込んだ。
やがて洗濯が片付いたようでガサガサと違う音が聞こえてきた。直後、「サイアク!」となかなか不機嫌な叫びが聞こえてきた。果たして間に合うのかな。朝の彼女は余裕がないからとてつもなく怖い。余計な会話を投げるなんて、恐ろしくてできたもんじゃない。管理職候補の人は違うなあ。いつだったか、そんな心の声がうっかり口から溢れた日があった。数日間口を利いてもらえなくてあれはひどい目にあった。朝に機嫌を損ねたら終わりだとよぉく学んだ。
冗談さておき、彼女は仕事を生き甲斐としている。それは良いんだけど。でももう少しだけ、僕に話してくれたり甘えてくれないだろうか。頼ってほしい、と思うのは同居人だからだし、僕だって力になりたいなと思うのが正直な気持ちだ。最近は特に朝の感情の起伏の上がり下がりが激しい。きっと、仕事に追い詰められてるからなんだろうな。
「もー。1回しか履いてないのに伝線とか最悪」
ぶつぶつ言いながら彼女がリビングに戻ってきた。僕に背を向けて椅子に腰掛け新しいストッキングに履き替えている。丸まる彼女の背中を見ながら焦げかけたトーストをかじった。
僕より小さいその背中で、背負っているものは僕よりもずっと大きくて重たいものなんだろうな。
「じゃあ、行ってくるね」
仕度が済んで足早に僕の横を通り過ぎる彼女。
「待って」
僕が引き留める時にはもうドアノブに手を掛けていた。なに?、とちょっと迫力のある声で言われる。そんな怖い顔しないでよ。
「いってらっしゃい」
そう言って、頭からぎゅっと抱えるように抱き締めた。ヘアスタイルが乱れちゃったじゃない、とか、化粧が崩れたでしょ、とか怒られてもいい。髪型も化粧も直せないけど、僕はキミの心の健康を取り戻せる唯一の男だよ。こんな体たらくな人間でもね。
そして彼女をたっぷり20秒抱き締めた。そろそろ遅刻の不安が出てくるからいい加減にしておこう。でも、その間彼女は全く抵抗を見せなかった。だから少し期待している。じゃあ今から腕を放してその顔を覗き込むよ。とっても楽しみだ。
ピアノの演奏が、今日も始まった。
いつも決まった時間に音楽室から聞こえてくる。きっと有名な曲なんだと思う。素人の俺でさえどっかで聞いたことある感じの音楽だったから。でもこれが何ていう曲なのかなんてどうでも良かった。そんなことより、“誰が”弾いてるんだろう。そっちのほうが気になって仕方ない。毎日夕方6時くらいに始まるこの演奏会。下校時間です、と放送が入った後なので、周りには誰も居ない。俺以外は。
きっと清楚で髪の長い女子なんだろう。頭の中で勝手にそんなイメージを創り出していた。音楽の知識がゼロだけど、そんな俺でもなんとなく分かる。こんなふうに優しく弾くのだから、間違いなく儚い感じの女子だ。きっと人目をしのんでピアノの練習をしているんだ。もう、弾いてる音楽のことよりその子のことで頭がいっぱいになっていた。
だから今日、意を決して俺は音楽室の中に飛び込む。
時刻は夕方6時5分。いつものように演奏が始まった。俺はあらかじめ音楽準備室のほうに隠れて息を潜めていた。今日のピアノが奏でる音楽はわりとゆったりめの曲だった。数分間じっと聞いてれば眠ってしまいそうなほど。でもそんなオチにさせてたまるか。演奏開始僅か1分ほどで俺はドアを開け放った。
「うおっ」
聞こえた声はキャーみたいな可愛いもんじゃなかった。ドスのきいた野太い声。ピアノの前に座っていたのは女ではなかった。そして、その人物を俺は知っていた。
「お前……なんでここに」
「それは俺のセリフだっつうの!なんでここにいるんだよ」
同じクラスの男子生徒だった。ソイツはみんなから“ハカセ”と呼ばれている。名前が“ヒロシ”で、漢字が“博士”だからだ。ハカセとあうあだ名のくせにソイツはインテリ系というわけではなく、丸坊主のラグビー部の主将を担っていた。
そんな男がまさか。こんなヤツが。あんな繊細な演奏をしていたというのか。嘘だと思いたい。俺の頭の中の清楚系女子はがらがらと崩れ落ちてゆく。
「……聞くけどよ」
絞り出すように声を出した。ハカセは額に汗をかきながら俺を凝視していた。
「今までずっと、6時過ぎに聞こえてたピアノの音ってお前なのか?」
「そうだけど……つうか、なんで知ってんだよ」
「嘘だろおい……」
思わずその場に座り込んでしまった。あの演奏が、お前?ともう一度口に出してしまったほど俺は狼狽えていた。あんなに綺麗でか弱そうな音色が、このいかついマッチョ野郎だったなんて。項垂れ具合が半端ない。嘆く俺にハカセはどうしたんだよ、と近寄ってきた。だからその肉厚な手を思い切り握った。
「うお?!なんだよ」
「マジでショックだったわ」
「はあ?」
「けど、マジで毎日感動してたわ」
サンキュ、と言って無理矢理固い握手を交わした。どんなヤツが弾いてようが、俺は間違いなく感動したんだ。それだけは言える。まぁでも正直、可愛い女の子じゃなかったのはショックだったけど。でもコイツの演奏は半端なかった。魂震えた。だから礼を言うのは当然だと思う。
「……なんかよく分かんねぇけどよ。も少し聞いてくか?」
ハカセは目線を向こうにやりながらボソッと呟いた。俺は近くのパイプ椅子を引っ張ってきて真正面に座る。頼むわ、と一言言って、1番の特等席で、イカつい男の演奏会に聞き入った。
夏が嫌いだ。花火もヒマワリも蝉の声も風鈴の音も。ぜんぶぜんぶ、私の大好きな人が居なくなった季節に見聞きしたものは大嫌いだ。
あの夏、あなたは突然私の前から消えてしまった。消えた、というのはその言葉の通りで。朝を迎えたらあなたの姿かたちがなくなっていた。私が起きた時にはベッドの隣はもうとっくに冷えていた。
前日は何も変わったことなんてなかった。いつものようにいっしょにご飯を食べて、同じ時間に寝室に行った。おやすみ、と笑顔で言われた。だから何か思い悩んでたとは考えられない。私に何らかの不満があったとも思えない。分からない。それ以外に言えることが無かった。
そして何も分からないまま今日で20年が経ってしまった。きっとすぐ帰ってくる。最初はそう思えていた心の余裕が今はもう無いに等しい。私をこんなふうに1人にさせてひどいよ、と恨むこともなくなった。そう思えなくなるくらい、心は疲弊しきってしまった。
あなたの物は20年間そのまんま。20年間というものはあらゆるものを変化させた。近所の花屋は閉店した。お札に印刷された人物も変わった。ある国では戦争を始めた。私の顔はシワだらけになった。
寝室のクローゼットにある洋服もそのまま。陽に当てないまま20年間眠っている。着てくれる主が居なくなったのだから出番なんてこない。
そして。
あの人の洋服が収納されている棚の上に麦わら帽子が置かれていることに今初めて気付いた。これも、誰も触らないから埃を被ってしまっていた。こんなものをいつあの人は買ったのだろうか。ヘアスタイルにいつも時間をかけていて帽子なんて必要としないあの人が。
それを考えたら一気に不気味感に襲われた。きっとこれはあの人のものじゃない。そうっと近付いて観察する。紛れもない女物の麦わら帽子だった。なら、私のために買ったのだろうか。だとするならこんなところにしまい込んでいた意味が分からない。そっと帽子を手に取る。ツバの部分は長い月日で少しだけ劣化していた。恐る恐る頭に被ってみる。決して被り心地は良いとは思えなかった。なんだか頭に触れる部分が変な感じがする。違和感を感じて帽子を脱いで内側を確認した。真っ赤だった。塗料のような鮮やかな赤ではなく黒っぽい赤。おまけに変な匂いもする。鉄のような匂いだ。
「ひっ……」
私は思わず帽子を放り投げた。そのままそこへ座り込む。それはペンキなんかじゃない。血だ。どうしてこんな場所に。外側は綺麗なのに、内側だけべったりとついている。誰の血なんだろう。いやそれよりももっと恐ろしいのは。
「なんで……乾いてないの……」
ぬるぬるした赤い液体が私の額から垂れた。私の血じゃないのに、頭に怪我を負っているようになっている。不思議から不気味へと変わり、その感情が今また変化する。恐怖。それを感じた瞬間、私は家から飛び出した。
「ここでいいよ。ありがとう」
彼女は足を止めて僕の方へ振り返る。そして、僕が両手に持っていた荷物を静かに奪った。
「本当に大丈夫?」
「うん。ここまでにしとかないと、また弱気になっちゃうから」
早朝の、地下鉄の駅。改札を抜ける手前で彼女は僕の見送りをここまででいいと断った。どちらにしてもこの先は切符が無いと先へ進めない。そしてそれは選ばれた者でしか持っていない。つまり彼女は選ばれた人間なのだ。
「気をつけてね。あまり無理しないで」
ありきたりな言葉しか出てこなかった。次にいつ会えるのかわからないのに。彼女はふわりと笑った。それが、穏やかにも見えるし寂しそうにも見えた。もしかして、僕に行かないでくれと引き留めてほしいのだろうか。そんな考えが不意に頭をよぎったけれど、そうではなかった。両手に持った荷物ごと、彼女はぶんぶんと手を振る。そろそろお別れの時間だ。
「じゃあね!」
改札を抜けて彼女は行ってしまった。後ろ姿は何とも勇ましかった。あんなふうに大股で歩いたら転ぶんじゃないか、こっちは心配になったくらいだ。
やがてその後ろ姿も消えてしまった。今日、この終点の駅から彼女は旅立つ。“終点”が、彼女にとっては始まりになる。
もっともっとすごいものを見てみたいの。あの夜、瞳を輝かせながら彼女が言ったから、僕は止められるわけがなかった、だから祈ろう。キミの旅路が幸多きものになりますように。祈ることしかできないけれど。1人取り残された僕は、またいつかキミに逢えるその日まで、ずっとずっと祈ってる。
うずくまっている私の背中を誰かが後ろから抱いた。
その正体を確認したかったけど、思いのほか力が強くて身動きできなかった。
「そのまま聞いて」
耳元で囁かれた。あぁこの声知ってる。ようやく誰か分かったけど、どうしてこの人に抱き締められているんだろうとも思った。でも、今は素直に言われた通りそのまま動かずじっとすることを選ぶ。
「つらいよね。その気持ちが分かる、なんて軽々しく言えないけど、今のキミはいつもの調子じゃないことくらいは分かってるつもり」
「……それはどうも」
「だから俺は頑張れなんて言わないよ。もう充分、キミは頑張ってるから」
だからさ。あとはやるだけやってみたら?
サラリと言われた。決して投げやりな言い方じゃなかったけど、その言葉はとても軽くて、じんわり私の耳の中に浸透してゆく。まるでそよ風を受けたくらいの感覚。
できなくてもいい。上手くいかなくたっていい。
そのステージに立つことが重要なのだから。逃げも隠れもせず、たった1人で立つキミは誰よりも格好良いよ。
最後にそう言って私の体から温もりは離れた。でも、彼の言葉が魔法となってずっとここにいてくれる気がした。独りじゃないって、思えた。
やるだけやってみようか。挑むことに意味がある。結果なんて最初からあてにしてたら何もできない。立ち上がって大きく背伸びした。太陽が眩しい。風が気持ちいい。今の私は、間違いなく1分前の私より強くなっている。