死の床に着いた令和の高僧・真観は弟子達を枕元に呼び寄せた。真観は枕元の木箱を弟子達に示し、こう言った。
「これは呪いの壺だ。この壺は極楽浄土のように美しく、誰もかみな虜になる。だが、これを巡って幾度も争いが起き、これを手に入れた者は皆非業の死を遂げた。儂が死んだら、これをご本尊の裏に隠せ。誰も壺を見てはならぬ。誰にも壺のことを言ってはならぬ。」
真観は静かに目を閉じた。
「ご臨終だ。」
一番弟子の観乗が告げた。
弟子達の誰もがみな号泣した。
真観の棺は本堂に安置され、壺は本尊の裏に隠された。
その夜、事件は起こった。
二番弟子の乗磐が壺を持ち出そうとしたのだ。弟子達は皆本堂に集まった。
「…売って葬儀代にしようと…檀家減って寺の経営厳しいし…今の財政状況で盛大なお葬式は…」
ボソボソと弁解する乗磐。
「素直に謝れっ!」
弟子達は口々に乗磐を非難する。
そこへ若者達が押しかけてきた。
「呪いの壺どこ?」
弟子たちは顔を見合わせた。
「誰だ。喋った奴。」
「すいません。私です。SNSで呟いちゃいました。ははは。」
三番弟子の乗越が手を上げた。
「お前っ!」
弟子達は一斉に乗越を非難する。
「呪いの壺はここです。」
四番弟子の乗毛が壺の箱を開けようとする。
「何やってんだ!」
弟子達は慌てて乗毛を止める。
「SNSに載せて貰えばお寺は有名になります。ご本尊様の前に壺を飾れば、映えスポットになるかも。」
「それ、いいな。」
弟子の半数が賛成する。
「何言ってんだ!ご遺言を守れ!」
弟子の半数が反対する。
「何だとっ!」
「やるかっ?」
一触即発のその時、棺の蓋がバンっと開いた。
「喝ーーーーーーッツ!!!」
弟子達は凍りついた。
真観は棺から起き上がった。
「観乗、見せてやれ。」
観乗は壺の箱を手に取るとその蓋を開け、他の弟子達に示した。中にあったのは粗末な割れた壺だった。
「何と情けないことか…」
真観は目頭を押さえた。
「お前達の修行がどれ程のものか試してやったが、この程度とは!」
真観は顔を上げた。
「儂は死なんぞ!お前達全員の煩悩を消し去るまでな!」
日本一厳しい寺の修行は、更に厳しくなった。
あれは本当に呪いの壺だった。
弟子達の誰もがみな思った。
戦争はその街の全てを破壊し尽くした。
戦争はその街の少女から全てを奪い尽くした。
その夜も街にミサイルが降り注いだ。街が存在していたという記憶さえ焼き滅ぼすために。
その夜も少女はたった独りで震えていた。大切な人々の最期を思い出しながら。
「…ぅぅ…ぅぅ…ぅぅ…ぅぅ…」
かすかな呻き声。少女は声が聞こえてくる方を見た。
「…お…た…す…け…」
ミサイルの爆発でできた大きな穴の底。その中心から水掻きが付いた二本の足が突き出てていた。
「たいへん!」
少女は穴の底に駆け下りると、突き出た足を握り、渾身の力で引っ張った。
「うーっ、うーっ、うーーーっ!」
スポン、と地面から足が抜け、少女は尻餅をついた。
「ぷはあぁーーーーーっっ。」
現れたのは少女の背丈ほどもあるカエル。カエルは二本の足で立ち上がると、王冠を被り直し、黒い毛皮のマントに付いた土を払い落とした。
「大丈夫?カエルさん。」
「無礼者!ワシは大悪魔、地獄の王・バエルや!」
バエルは腰に手をあてふんぞり返った。
「はー、ヒドい目に遭うたわ。ひさびさに地上を見にきたら、ミサイルに当たって地面にめり込んでしもた。人間ちゅうのはいつからこないに残虐になったんや?悪魔でもここまでヒドいことはせぇへんで。」
バエルは飛び出た二つの目をクルクルと動かして、破壊され尽くした街を見回した。
「助けてくれたお礼に、嬢ちゃんの欲しいモン何でもあげよ。遠慮せんと言うてみ。」
少女はしばらく考えると、こう言った。
「…花束。花束が欲しい。お母さんとお父さんとお兄ちゃんとお姉ちゃんのお墓にお供えする花束。お隣のおじさんとおばさんのお墓にお供えする花束。お友達のお墓にお供えする花束。戦争で死んじゃったみんなのお墓にお供えする花束。」
「お安いご用や。ちょっと待っとき。たんとあげよ。」
バエルは黒い煙となってかき消えた。
その時、上空から一発のミサイルが轟音をあげて少女の頭上に落ちてきた。
もうダメ。死んじゃう。
少女はギュッと目を瞑り、体を固くした。
少女の頭に、頬に、肩に柔らかなものが触れた。少女は固く閉じた目を恐る恐る開いた。目の前に純白の薔薇が次々と落ちてくる。少女は夜空を見上げた。降り注ぐミサイルは次々とはじけて白い花に変わっていく。花は優しい雨のように街に降り注ぎ、清らかな雪のように降り積もった。
ある天才数学者が餓死寸前の状態で病院に運び込まれた。治療の結果、数学者は会話ができるまで回復した。数学者の主治医は彼に尋ねた。
「何があったのです?」
数学者は何の感情も無い声で答えた。
「神の方程式を発見したのです。」
「神の方程式?」
「過去に起こったこと全ての原因を解き明かし、未来に起こること全てを完璧に予測できる方程式です。」
「それは素晴らしい。その方程式とやらを此処に書いて頂けませんか?」
主治医はカルテとペンを差し出した。
数学者は虚ろな目を向けると、か細い声で答えた。
「書くことはできません。口に出すことも。絶対に。」
「何故です?その方程式があれば、医学は飛躍的に発展する。病気の原因を突き止め、治療法を発見することができる。沢山の患者が救われる。」
「あなたが一人の命を救うことで、一万人が死ぬ。それが証明されてもそう言えますか?」
「どういうことです?」
当惑する主治医を無視するように、数学者は窓の外を見た。空は青く澄み渡り、白い雲が浮かんでいた。数学者は生気の無い表情でしばらく空を眺めていたが、おもむろに口を開いた。
「バタフライ・エフェクトをご存知ですか?蝶が羽ばたく、そんな些細なことが大きな嵐につながるのです。もし、あなたがアイスクリームを食べたことで山火事が起こったら?もし、あなたが恋人とキスすることで大きな戦争が起こったら?私の方程式を使えば、全て証明できるし、予測できるのです。それに耐えられる人間がどこにいますか?」
数学者は頭を抱え、背中を丸めた。その体はブルブルと小刻みに震えていた。
「私は、私は悪魔の方程式を発見してしまった。」
翌朝、数学者の姿は病院から消えた。
病室の白い壁には、血でこう書かれていた。
私は方程式の一般解を発見しました。
人間にとってもっとも善いことは生まれて来なかったこと。あの哲学者の言葉を証明してしまったのです。
砂浜に一匹の黒い鯨が打ち上げられた。照りつける太陽の下、巨大な翼のよう鰭を必死にばたつかせ、もがき続けた。だが、もがけばもがくほど、その巨体は砂に飲み込まれていく。やがて太陽は西に傾き、鯨はピクリとも動かなくなった。鯨の大きな目には、どこまでも続く砂丘の果てに沈んでいく太陽が映っていた。
無念だ。
鯨は呟いた。
儂もじゃ。
どこからかしわがれた声がする。
鯨は力なく目を動かす。その口元には一匹の白い猫がいた。猫は老いて艶を失った毛を海風に靡かせながら、どこまでも続く大海の向こうから登ってくる満月を見つめていた。
私は、世界の果てを目指した。
鯨は消え入りそうな声で話し始めた。
私が幼かった頃、群の長老が教えてくれた。太陽が沈むところに世界の果てがある、と。世界の果てが見たかった私は群から離れ、旅に出た。百年、たった独りで。氷の海を越え、嵐の海を渡ってここにたどり着いた。だが、私にはもう、この砂の大海を泳ぐ力は残っていない。
鯨の目から涙がこぼれた。
儂も世界の果てを目指した。
猫が話し始めた。
儂が子猫だった頃、母猫が教えてくれた。月が登るところに世界の果てがある。世界の果てが見たかった儂は母猫と別れ、旅に出た。八回、生まれ変わって。灼熱の地を越え、千尋の谷を渡ってここまで来た。だが、儂は知ってしまったじゃ。
猫は大きな溜め息をついた。
太陽が沈むところにも、月が昇るところにも世界の果てはない。大海と大地はここで繋って巨大な玉となっておる。太陽と月はその周りをくるくると回っているに過ぎぬのじゃ。
何だって!
鯨は目を見開いた。
本当の世界の果ては、あそこにあるのじゃ。
猫は鯨の巨体に飛び乗ると、その瞼の上に立ち、針金のような尻尾で空の一点を指し示した。
鯨はその尻尾の先に目を動かす。暗くなり始めた空には、星が輝いていた。
見えるか?
猫は金色の目で星を見上げた。
北の空に輝く不動の星。星々の王。そここそが世界の果てじゃ。
鯨は最後の力を振り絞って鰭を上げ、星に触れようとした。
あそこが世界の果て。
だが、その鰭は大きな音を立てて砂浜に落ちた。
うぅ、うぅ、うぅ
鯨は力なく泣いた。
のぅ、生まれ変わる覚悟はあるか?
鯨を見ていた猫が口を開いた。
猫には九つの命がある。儂には、もう一つだけ命が残っている。それをお前さんにやろう。その代わり、お前さんは儂にその体をよこせ。幾千里の幾千里のそのまた幾千里を越えていける体をな。
鯨は一つまばたきをした。
猫は鯨の大きな口の中へと潜り込んだ。
鯨はゴクリと猫を飲み込んだ。そして静かに目を閉じた。
満月が中天にさしかかる。月光に照らされた鯨の体は激しく波打ち始めた。黒い羽毛が生全身を覆う。細長い口は巨大な嘴となり、腹からは巨大な鋭い爪が生えた二本の脚突き出す。そして鰭は巨大な翼となった。
巨大な鳥となった鯨は二本の脚でゆっくりと立ち上がり、その目を開いた。金色の鋭い瞳が不動の星を捉える。
きぇえええーっ
鳥は大海と大地を揺るがす鳴き声を上げ、翼を広げた。鳥は空一面を覆い尽くす巨大な翼を羽ばたかせ、満月を吹き飛ばすほどの風を巻き起こしながら、北の空へ消えていった。