夕月西 世朱

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 砂浜に一匹の黒い鯨が打ち上げられた。照りつける太陽の下、巨大な翼のよう鰭を必死にばたつかせ、もがき続けた。だが、もがけばもがくほど、その巨体は砂に飲み込まれていく。やがて太陽は西に傾き、鯨はピクリとも動かなくなった。鯨の大きな目には、どこまでも続く砂丘の果てに沈んでいく太陽が映っていた。
 無念だ。
 鯨は呟いた。
 儂もじゃ。
 どこからかしわがれた声がする。
 鯨は力なく目を動かす。その口元には一匹の白い猫がいた。猫は老いて艶を失った毛を海風に靡かせながら、どこまでも続く大海の向こうから登ってくる満月を見つめていた。
 私は、世界の果てを目指した。
 鯨は消え入りそうな声で話し始めた。
 私が幼かった頃、群の長老が教えてくれた。太陽が沈むところに世界の果てがある、と。世界の果てが見たかった私は群から離れ、旅に出た。百年、たった独りで。氷の海を越え、嵐の海を渡ってここにたどり着いた。だが、私にはもう、この砂の大海を泳ぐ力は残っていない。
 鯨の目から涙がこぼれた。
 儂も世界の果てを目指した。
 猫が話し始めた。
 儂が子猫だった頃、母猫が教えてくれた。月が登るところに世界の果てがある。世界の果てが見たかった儂は母猫と別れ、旅に出た。八回、生まれ変わって。灼熱の地を越え、千尋の谷を渡ってここまで来た。だが、儂は知ってしまったじゃ。
 猫は大きな溜め息をついた。
 太陽が沈むところにも、月が昇るところにも世界の果てはない。大海と大地はここで繋って巨大な玉となっておる。太陽と月はその周りをくるくると回っているに過ぎぬのじゃ。
 何だって!
 鯨は目を見開いた。
 本当の世界の果ては、あそこにあるのじゃ。
 猫は鯨の巨体に飛び乗ると、その瞼の上に立ち、針金のような尻尾で空の一点を指し示した。
 鯨はその尻尾の先に目を動かす。暗くなり始めた空には、星が輝いていた。
 見えるか?
 猫は金色の目で星を見上げた。
 北の空に輝く不動の星。星々の王。そここそが世界の果てじゃ。
 鯨は最後の力を振り絞って鰭を上げ、星に触れようとした。 
 あそこが世界の果て。 
 だが、その鰭は大きな音を立てて砂浜に落ちた。
 うぅ、うぅ、うぅ
 鯨は力なく泣いた。
 のぅ、生まれ変わる覚悟はあるか?
 鯨を見ていた猫が口を開いた。
 猫には九つの命がある。儂には、もう一つだけ命が残っている。それをお前さんにやろう。その代わり、お前さんは儂にその体をよこせ。幾千里の幾千里のそのまた幾千里を越えていける体をな。
 鯨は一つまばたきをした。
 猫は鯨の大きな口の中へと潜り込んだ。
 鯨はゴクリと猫を飲み込んだ。そして静かに目を閉じた。
 満月が中天にさしかかる。月光に照らされた鯨の体は激しく波打ち始めた。黒い羽毛が生全身を覆う。細長い口は巨大な嘴となり、腹からは巨大な鋭い爪が生えた二本の脚突き出す。そして鰭は巨大な翼となった。
 巨大な鳥となった鯨は二本の脚でゆっくりと立ち上がり、その目を開いた。金色の鋭い瞳が不動の星を捉える。 
 きぇえええーっ
 鳥は大海と大地を揺るがす鳴き声を上げ、翼を広げた。鳥は空一面を覆い尽くす巨大な翼を羽ばたかせ、満月を吹き飛ばすほどの風を巻き起こしながら、北の空へ消えていった。
 

1/31/2024, 6:48:06 PM