鋪道の脇とかに駐めてるのはもちろん、きちんと駅前の有料駐輪場とかに駐めてある自転車でも、ハンドルの前にカゴがあれば高率にゴミ見かけるようになった。
以前から長期間放置された自転車のカゴに空き缶とかが入っていることはあって、その頃はたぶん「こんなとこに自転車放置してんじゃねぇよ」だったんだろうけど、例の事件で駅のゴミ箱が撤去され、街角や公園からもゴミ箱がなくなってから、一気に酷くなった。
つまり自分のゴミなんだけど自宅にまでは持ち込みたくないとかいう民度が可視化されたわけだけど、カゴにゴミを入れられた人たちは、周囲にゴミ箱がなければ他人のゴミを持ち帰るはずもなく、するととなりの自転車に入れる。
だから、都市のあちこちに普通にあったゴミ箱の管理業務(実は都市の清掃業務そのもの)を合理化して廃止できると思ってる行政や企業の肩代わりが、通勤自転車のカゴに集中している。
これは都市だけではなく、通勤自転車が駅前に集中するような、顔が見える規模の地域内でも同じ。
海外では行政による街中のゴミ箱設置と清掃業務が徹底していたけど、それでも街は汚れていたし、あれじゃゴミ箱がなければたいへんなことになるので、行政はそんな市民や旅行者たちを理解していて対策していた。そもそも自転車なんか当たり前に盗まれてたし。
だから、行政が作ってる問題なんだけど、でも誰かがゴミを捨てるんじゃなくて、誰もがゴミを放置する、誰かが片付ければいいや、でも誰も片付けない、っていうのが日本人や日本の行政で、この国では「誰か」は「誰も」。
それなら個人の「誰か」に押し付けるんじゃなくて、むしろその場に放置して公的空間や料金取ってる管理者の責任として可視化して緊張感を持たせるのが最善だし必要なのに、そこまでの思慮や覚悟はなくて、それならむしろ観光地の物陰で平気で排泄(ウンコ)してく海外旅行客の方がまだ建設的だな。
ということで、いろいろ言うてもゴミとウンコの話。
遠い足音...
といえばあれですよね、気持ちの良い秋の日にハイキングで山に登る。
どこか遠く、少し上の方で、同じように枯れ枝を踏みながら、急坂なのか時どきペースが乱れたりしている足音が聞こえる。
ああ、もう1人先行している方がいるんだな、天気もいいし、とか思いながら、だんだん視界が開けてきて山頂に着く。あら、誰もいない。
しばらく待ったけど、誰も登ってこない。
登山道は一本なのに、誰ともすれ違ってない...
ってな話。
ちょっと怖くて不思議な話ですけど、今から思えば、あれは妻鹿さんがバリやってたんでしょ。
秋って、そろそろ来るかな、と思ってるうちにもうすっかり秋になってるパターンが好きらしい。
自宅で待ち構えているのに、いつの間にか来て不在票だけ入れてく佐川急便ほどは悪質ではないけど、あんたいつ来たんだよ、と問いただしたくなる。
永遠はないけれど、それは質量のあるものとか、それともエネルギーとして作用するものとか。
いずれにしても、最初のエネルギーを発したものは何か、無から何かが発したのかよ、というのと同じように、無くなった後に何が残るのか、無になっても何かを発しうるなら、背景にある「世界」は残って永遠なんじゃないかと思う。
(もちろん知らんけど。)
* 無から有は生まれない、生まれた段階で何か(因)があったことになるし、だから存在(果)がある段階で無はない、無にもならない、って話で、エネルギー保存則より一段深い何かがあるのか分からないけど。
コーヒーって、冷めないうちに飲まないとダメですよね。
最悪なのがコーヒーメーカーで作ってしばらくサーバーで保温されてたコーヒーで、すぐに嫌な苦味というかエグみが出て、あんなのお金払ってる客に出すもんじゃない。お代わり無料とかいうとこもあるけど、それ以前にあれは飲みたくないだろう。
だいたいイタリアやフランスでは高圧抽出のエスプレッソが主体だった。日本の緑茶の「玉露」について、「舌頭へぽたりと載せて 、清いものが四方へ散れば咽喉へ下るべき液はほとんどない 。ただ馥郁たる匂が食道から胃のなかへ沁み渡るのみである 」と表現した人がいるけれど、さしずめカフェ/カッフェ(エスプレッソ)の味わいもそんなところで、こちらは清いというかどろっ・ざらっと濁ってる。
これをドリップ式にしたドイツ、さらに入植時代に豆が手に入らないからって薄めて、ダイナーとかではサーバーなんてのも使って、面倒だからたくさん抽出して保温しとくスタイルにしたアメリカが悪い。