神様に聞けるならば、自分の信者たちが、自分の預言を持ち出して、自分の名の下で他教徒を殺戮している状況をどうお考えなのか。
全知全能の神が複数いるのだとして、どうしてその神同士が共存できず、しかも神同士で解決するのでもなく、人間に殺し合いをさせることで覇権など取ろうとするのか。そもそもそんな覇権がほしいのか、聞いてみたい。
どちらも全知全能ならば共存できるはずだし、そこに優劣はないでしょう。
そして、もしもこれが人間の欲望が生み出した、神の名を騙って正当化している争いにすぎないのならば、大量の人々を殺害している人々をなぜ諭したり、警告したり、罰したりしないのか。
このままでは、誹られるのは神とその教えではないか。
そして聖典では、邪な人々は過剰なまでに粛清したり殲滅したりして、罰していたではないですか。
快晴というと、やっぱり突き抜けるような空の色で、その青さは土地によって違うとも思ってるんだけど、晴天の霹靂、といった時の「青天」が、まさに新明解によれば「晴れた日の、青く抜けるように見える空」なんだそうだ。
ちなみに霹靂の霹は動詞で雷が轟き落ちること。靂の方は雷の炸裂する音を示す擬声語で、霹靂ぐらいでしか使わないらしいけど、本邦では「はたたかみ」とも読むらしく、他には「いなびかり」「いかづち」の読み方も。言海では霹靂と書いて「カミトケ、ハタタガミ、イカヅチ」。カミトケは雷解で、雷ノ落ツル。昔は雷が落ちるを「雷が解く」とも言ったらしい、へぇ。
ちなみに蒼天航路の蒼天になると、青の深みが増すらしくて、これは春の空のことで、天帝も意味するらしい。曹操って、天帝よりはやっぱり覇王なので別だと思うけど、読んでないので知らない。
言葉って、その物事全体を示すこともあるし、物事の一つの側面を示すものもあるけど、いずれも記号化で、たとえばりんごは赤くて丸くて甘いもの。赤い、丸い、甘いはその一つの側面を示しているけど、でもりんごには青かったり、ちょっとひょろ長かったり、酸っぱいりんごもある。酸っぱさにも、爽やかな酸味もあるし、饐えた刺激性もある。そして、それ以外にも、言葉では拾いきれないものは大量に残される。
そしてその言葉にも、持たされた意味以外の要素はたくさんあって、例えば音の響き、他の言葉と合わせて伝わるもの、過去に使われた状況の記憶。
かっぱらっぱかっぱらったかっぱ、ここでは河童も喇叭もないし、河童の川流れとかも、字面だけ見たら流れたから何だよだし、いややめていけずやわとかは、嫌でも止めてでもイケズでもない。
だから言葉は、外国語みたいに意味に合う記号を集めて、組み立てたり並べ直したりするようなものではなくて、どこかで育っていてするりと生まれてくる、変にイジるとむしろ不恰好になるようなところがある。
それから、表象でも響きでも意味でも連想でもない、言葉の持つ効果というか力もありますよね。品格というか凄みともいうのか、これが一番難しいと思う。
春や桜には申し訳ないけど、以前は日本酒のTVコマーシャルというのがたくさんあって、細かい内容は覚えてないけど、最後に男性の声で「美酒・爛漫」と言ってシメるのがあった。
他にも「やっぱり俺は菊正宗」とか「カッパ黄桜」(なぜカッパ?)とか「酒は大関心意気」「松ちーく梅」「会津の良さは酒の良さ、花春」とか、けっこうたくさんあった。
そこから地酒ブームになって、もちろん発掘されるような地方の蔵元は全国CMなんか打たないし、美味しんぼとかの影響もあって大手蔵元のCMが減って、いつのまにか「大関○(マル)」も見かけなくなってしまった。今ではおしゃれな日本酒のCMぐらいしかないような。
最近は、お酒のコマーシャルといえばサントリーとキリンがタレントにビール飲ませて、どれも似たように「美味い」しかメッセージがない、広告代理店が思考停止したCMばかりになってしまって。
ということで、春、花、お酒、爛漫。
ちなみに「美酒爛漫」は秋田銘醸(秋田県湯沢市)
(動画で見直したら、花春は出演してる女優さんが美人)
君の目を見つめると、なんだよ!と言いたげにニャーといって、猫パンチ。