なかなかネットでは言い出せなかったのですが、それは酷い惨状だったのです。
この地域には毎晩欠かさず、汚れた雨が執拗に降るのですが、その代わりに昼間に雨が降ることはないので、だからあの日も私たちは、野営地で、前日の雨に蝕まれた身体を乾かしながら休んでいたのです。同僚も隣でぐったりと座り込んでいました。
すると、後ろからバサバサという何か大きな羽音がして、トンビのような鳴き声が響いたと思ったら、この地域では見たことがない3人が、恐ろしい勢いでこちらに走って来るのです。
1人はがっしりとした大きな身体に、何か恐ろしい動物の頭骨のような兜を被り、もう1人は頭からすっぽりと緑色のローブのようなものを着ていました。この2人は全く無表情なのですが、もう1人は小柄な白い服を着た女性で、まるで人形のようだったのですが、この娘だけはにこにこと笑っていました。
この3人が、疲労で動けない自分たちにいきなり斬り掛かってきたのです。そこからは阿鼻叫喚でした。隣で座り込んでいた同僚も、立ち上がる間もなく切り伏せられました。
この3人は言葉を喋りません、しばらく聞こえたのは私たちの悲鳴だけでした。
とても長く感じられましたが、実は1分もたっていなかったのか知れません。そこにいた私たちを壊滅させた3人は、血まみれになった周囲から目ぼしいものを収奪すると、今度はそのまま集落の聖堂の方に走り去って行きました。
なぜか1人だけ取り残された私は、先ほどまで同僚たちと過ごしていた野営地の片隅に呆然と立ち竦んでいたのですが、ふと、3人が走って行ったのが聖堂の方角だと気づき、すっかり慌ててしまいました。というのも、この聖堂には私たちの妻や娘が御奉公に行っているからです。いけない、あの3人は妻や娘たちも...?
慌てて私が聖堂に辿り着いた時には、すでに3人の姿は見えません。駆け込むと、そこには自分や同僚の妻たちの無事な姿が... 不思議ですが、あの3人は聖堂に来ると、妻たちには見向きもせず、床に空いた大きな穴に駆け込んで行ったのだそうです。
そうですか、地下でお勤めされていた司祭さまが...
とても立派なお方で、あの聖堂をお一人で切り盛りされていて、私たちの心の支えにもなっておられたのに...
なんともおいたわしいことです。
無事だった妻と娘を見て、私は思わず涙ぐんだのですが、しかし先ほど殺されてしまった同僚たちの妻には、なんと言えばいいのでしょう。
一体私たちが何をしたというのでしょう。何か怨まれ、当然のように斬り殺されなければならないようなことを、私や同僚や、もしくは聖堂の方々が、あの3人にしたというのでしょうか。理由すらわからないこのような理不尽な目に、どうして遭わなければならなかったのでしょう。
あの3人には人の心というものがないのでしょうか...
「めくる」というと、上を覆っているものを剥いで下にあるものを出すことらしくて、例えば着物の裾なんかも「捲る」。
通勤電車で立ったまま文庫本を読んでた人なら、左手で持って親指でページを換えるだけだけど、例えば映画化された『薔薇の名前』なんかみてると、ヨーロッパの中世の本ってのはでっかくて、たぶんあれは時祷書みたいに美麗な装飾がされているんだけど、それが薄暗い広間にずらりと並んだ天板が傾斜してる書見台に鎖でがっしり固定されてて、修道僧たちはそのでっかい羊皮紙でできたページを、指を舐めなめひっくり返してた。
今のタイとかネパールとかのアジアの僧院では、世界各地から中古のタブレットを寄進してもらって、大量のテキストがPDFになった端末を、子供の修行僧たちがひょいひょい読んでるらしい。
どのスタイルでも楽しそうだし、実際に楽しい。
夏の忘れ物を取りに、行くのは記憶のなか?
本来の心の中の風景というと、思いつきやすいのは夢だし、取りあえず外界への視覚や認識作用が無効化されて、心独自のイメージが広がっている。
でも本当は、夢すらも見ていない、つまり夢の記憶が働いていないのではなく夢も見ていない状況で起こっていることこそが、心の固有の風景なんじゃないかと思う。
電源は入っているけど、モニターには何も写し出されていない、アプリケーションも何も起動されていない、ただスリープしているOS。
たぶんこれはどの端末でも同じ光景で、CPUの速さとか、交流電源が50Hzか60Hzかくらいの違いはあるのかもしれないけど、そもそも差別化できる要素というものがない。
スタンバイ状態でほぼ虚無だけど、そこに流れてるOSは共通。
強者(ツワモノ)か、冬蟲か、どっちだ?