注ぐ愛は持っているが、注ぎ方が分からない。
そもそも、愛とは注ぐものなのか?
自分の中にタプタプと溜めて、愛情込めた眼差しで見つめてるだけじゃダメ?
きっとそのうち愛が溢れ出して、注がずとも相手に流れ込む時が来るかもしれないけど。
行動で見せる愛は、本物か否かの見極めが難しい。
その理由は人それぞれだから。
私利私欲だったり、承認欲求だったり、謀略や下心から生まれる行動だったり。
家族や親子なら、まだ本物の愛を示しやすいかもしれないけど、それを日常にするのはやっぱり難しい。
だからまずは、自分自身に愛を注いで、自分の中にタプタプと溜めて、そのうちに愛が溢れ出すのを待とうかな。
そしたら、自分は満たされてるから、きっと嘘偽りなく誰かに愛を注げるかも。
惜しみない愛をあなたへ。
僕はもうお腹いっぱいだからね。
他人への愛とかリスペクトをまったく持たない人もいるんだろうな。
自分への愛すら持たない人も。
誰かを傷付けたり、自分を終わらせたり。
この存在はそんなに価値のないものなのか。
誰にだって両親がいて、産んでくれて育てられたからこそ、今ここにいる。
軽んじていい理由なんてどこにもない。
愛の注ぎ方。
そんなもん知らなくても、きっと誰かを幸せにすることは出来る。
自分がそこにいるだけで。
誰かがそこにいるだけで、自分が愛に包まれ幸せを感じられるように。
そんな以心伝心が、愛を注ぐということなのかもしれない。
こんなに生きてきても、本当に心と心が通じ合う人に出会えた気がしない。
そもそも、そんな人がいるのかさえ疑わしい。
意気投合できる人はいるけど、深く知り合うと違いが見えてくる。
時には、突然「え!なんで?」と思わされることもある。
そのくらい人は十人十色。だから面白い。
だけど、心のどこかでは、自分とまったく同じ心を持った人に出会いたいと願っている気がする。
何をしても理解され、何を話してもぶつかることなく、延々と思いの共有ができて…改めて書いてみると、楽しいのか、これ。
自分の中だけでやってりゃいいような気もするな。
何しろ、実際に出会ったことがないから、ホントのところは分からない。
ただ、よく思うのは、心の機微っていうか、繊細な部分を持っているかいないかの違いがあって、そのどちらが幸せなのかなってこと。
ちょっとしたことで心が動いて、嬉しくなったり悲しくなったりする自分と、よほどのことがない限り動じない余裕のある人。
ぶっちゃけ、敏感さんと鈍感さんだ。
敏感さんは感受性豊か。鈍感さんは…物事に流されない。
…どっちがいい?
願わくば、切り替えて使い分けたい。
いつもと変わらない夕焼けを見て、感動する心を失いたくはない。
でも、職場であった些細な出来事を、いつまでも引きずるようなガラスのハートは邪魔くさい。
心と心。これは自分の心の二面性だ。
あって欲しい一面と変えていきたい一面。
でも、私の心は唯一無二で、ここにひとつしかない。
どちらかを失えば、もう片方も消えてゆくし、思い通りにはいかないんだろうな。
これが自分だ、と胸を張ろう。それしかない。
敏感さんも鈍感さんも良し悪しだよな。
きっとバランスが取れてる。
こんな自分に生まれてきたことで、きっと世界の均衡が保たれてるんだ…と思い込もう。
それも、心のなせるワザだから。
目の前で痴話喧嘩が始まって、何でもないフリは難しい。
かと言って、部外者の私が、余計な口を出すのも憚られる。
とりあえず、「皆が見てるし、やめましょうよ」と言ってみた。
喧嘩の原因は、「どちらが今夜、風呂の掃除をするか」らしい。
どっちでもいいがな、そう思いながらも、そこに触れる訳にはいかない。
それは、二人だけの問題だ。
やめましょうよ、と言ってみたところで、二人の喧嘩は終わらない。
まあこれは、どちらかが風呂掃除を引き受けるまで続くんだろう。
そして、どちらも引き受けるつもりはない。
この二人は、このスーパーの生鮮売り場で、延々と言い争い続けるのだろうか。
閉店し人が消え、店の照明が消された後の真っ暗な店内で、二人の言葉の応酬が延々と続く様を思い浮かべ、なんだか可笑しくて笑ってしまった。
そんなことになる訳がないのだが。
しばらくして、彼氏の方が彼女に、もしくは、夫の方が奥さんに、「家に帰ったら、じゃんけんで決めよう」と提案して、言い争いは収まった。
最初からそーしろや、と思いつつも、他人の私が口出しすることではない。
エリンギをカゴに入れて、レジへ向かう。
「なんか、大変なのに巻き込まれちゃってましたね」
レジ係の女性が聞いてくる。
私はこの店の常連で、店員さんとも顔見知り。
ついでにこの女性は、私が密かに恋心を抱いている相手だ。
「いやあ、何にも出来ませんでしたけどね。ただそばに突っ立ってただけで」
「夫婦喧嘩は犬も食わないって言いますからね。結局、なんだかんだで二人で解決しちゃうんですよね」
「夫婦って、そーゆーもんなんですかね」
「そーですよ。ウチの旦那も、つまらないことでちょくちょく文句言ってきますけど、気が付くといつしか仲直り」
「あー、そーなんですか」
顔見知りではあったが、人妻だとは知らなかった。
もーショックで倒れそうだけど、必死で何でもないフリ。
大学入学当時、オリエンテーションとして、どこぞの宿泊施設に一泊するというイベントがあった。
宿泊地も覚えていない。
そんな昔の出来事。
目的地に着き、班分けされ、私は16班に。
地方から上京して東京の大学に入学したてで、もちろんまだ知り合いの一人もいない。
とりあえず部屋に入り、同じ班の仲間と顔合わせする。
全部で、八人くらいいただろーか。
何となく、この大学生活は、きっとこのメンツとともに過ごしていくんだろーな、とボンヤリと思った。
そーゆー目的のオリエンテーションでもあっただろう。
得てして、こーゆーグループにはリーダー格が生まれる。
ちょっと小太りの饒舌な男。
少しタッパのあるガリガリ男。
見事なアンバランスのツートップ。
何をするにも、そいつらに相談するようなシステムが出来上がってくる。
おいおい、勘弁してくれよ。
中高生じゃないんだからさ、誰かに威張られるのはまっぴらごめんだよ。
そんな感じで始まった大学生活。
ツートップは何かと采配を振るってきた。
集合をかけたり、詮索してきたり。
次第にウザくなり始める。
もう、大学生なんて、半分大人みたいなもんだろ。
いつまでこんな、お山の大将気取りを続けるんだ。
バカバカしくなって、少し距離を置いた。
同時に、別のグループの人達と交流する機会があり、ウチのグループのような主従関係がまるでないことを知る。
付き合いを完全にシフトした。
仲間を鞍替えして、ツートップからの招集も無視した。
ある日、小太りに呼び出される。
そして、こう聞かれた。
「お前、16班抜けんのか?」
…呆れた。ここまで勘違い野郎だったとは。
きっと、地元の高校でも、こんな感じで幅を利かせてたんだろうな。
アホらしくて、「アホらしい」と答えてその場を離れた。
真面目に答えるのもアホらしくて。
それから、いろんな嫌がらせがあった。
でもまあ、別の仲間がいたから気にしなかったし、そいつらとの付き合いは今も続いている。
16班の連中の現在は知らない。誰一人。
イイ奴もいたんだけどな。
あの日以来、完全に背を向けてしまった。
誰かに強制的に集められた仲間と、うまくいく保証なんてない。
それは今の職場でも同じだ。
誰が悪いとかじゃなくて、単なる考え方の相違で衝突してしまうことも。
だから、無理に仲間意識なんて持たない方がいいと思う。
仲間だからいつも一緒にいる、仲間だから互いの状況を把握する、仲間以外の人と仲良くするのは言語道断。
…付き合いきれない。人間はもともと独りなのに。
「お前、16班抜けんのか?」
このセリフが吐かれたあの日、私は仲間内にこそ敵がいることを知った。
その名のもとに、こちらの自由を奪い、自己満足のために他人を支配しようとする魔物がいることを。
あなたと手を繋いで、どこまでも歩きたい。
今までも、ずっとそうして生きてきた。
あなたが隣にいなくては、心が切なくて孤独に耐えられそうにない。
ずっとそばにいて欲しい。
そして、手を繋いで、二人どこまでも一緒だよ。
「三号室の患者さん、『自分はもうすぐ死ぬんだ』って思い込んでるみたい。今も奥さんがお見舞いに来てるけど、『二人だけにしてくれ』って、手術の成功を伝えに行った担当医まで病室から追い出したって」
その時、三号室の方から、女性の悲鳴が聞こえてきた。