目の前で痴話喧嘩が始まって、何でもないフリは難しい。
かと言って、部外者の私が、余計な口を出すのも憚られる。
とりあえず、「皆が見てるし、やめましょうよ」と言ってみた。
喧嘩の原因は、「どちらが今夜、風呂の掃除をするか」らしい。
どっちでもいいがな、そう思いながらも、そこに触れる訳にはいかない。
それは、二人だけの問題だ。
やめましょうよ、と言ってみたところで、二人の喧嘩は終わらない。
まあこれは、どちらかが風呂掃除を引き受けるまで続くんだろう。
そして、どちらも引き受けるつもりはない。
この二人は、このスーパーの生鮮売り場で、延々と言い争い続けるのだろうか。
閉店し人が消え、店の照明が消された後の真っ暗な店内で、二人の言葉の応酬が延々と続く様を思い浮かべ、なんだか可笑しくて笑ってしまった。
そんなことになる訳がないのだが。
しばらくして、彼氏の方が彼女に、もしくは、夫の方が奥さんに、「家に帰ったら、じゃんけんで決めよう」と提案して、言い争いは収まった。
最初からそーしろや、と思いつつも、他人の私が口出しすることではない。
エリンギをカゴに入れて、レジへ向かう。
「なんか、大変なのに巻き込まれちゃってましたね」
レジ係の女性が聞いてくる。
私はこの店の常連で、店員さんとも顔見知り。
ついでにこの女性は、私が密かに恋心を抱いている相手だ。
「いやあ、何にも出来ませんでしたけどね。ただそばに突っ立ってただけで」
「夫婦喧嘩は犬も食わないって言いますからね。結局、なんだかんだで二人で解決しちゃうんですよね」
「夫婦って、そーゆーもんなんですかね」
「そーですよ。ウチの旦那も、つまらないことでちょくちょく文句言ってきますけど、気が付くといつしか仲直り」
「あー、そーなんですか」
顔見知りではあったが、人妻だとは知らなかった。
もーショックで倒れそうだけど、必死で何でもないフリ。
大学入学当時、オリエンテーションとして、どこぞの宿泊施設に一泊するというイベントがあった。
宿泊地も覚えていない。
そんな昔の出来事。
目的地に着き、班分けされ、私は16班に。
地方から上京して東京の大学に入学したてで、もちろんまだ知り合いの一人もいない。
とりあえず部屋に入り、同じ班の仲間と顔合わせする。
全部で、八人くらいいただろーか。
何となく、この大学生活は、きっとこのメンツとともに過ごしていくんだろーな、とボンヤリと思った。
そーゆー目的のオリエンテーションでもあっただろう。
得てして、こーゆーグループにはリーダー格が生まれる。
ちょっと小太りの饒舌な男。
少しタッパのあるガリガリ男。
見事なアンバランスのツートップ。
何をするにも、そいつらに相談するようなシステムが出来上がってくる。
おいおい、勘弁してくれよ。
中高生じゃないんだからさ、誰かに威張られるのはまっぴらごめんだよ。
そんな感じで始まった大学生活。
ツートップは何かと采配を振るってきた。
集合をかけたり、詮索してきたり。
次第にウザくなり始める。
もう、大学生なんて、半分大人みたいなもんだろ。
いつまでこんな、お山の大将気取りを続けるんだ。
バカバカしくなって、少し距離を置いた。
同時に、別のグループの人達と交流する機会があり、ウチのグループのような主従関係がまるでないことを知る。
付き合いを完全にシフトした。
仲間を鞍替えして、ツートップからの招集も無視した。
ある日、小太りに呼び出される。
そして、こう聞かれた。
「お前、16班抜けんのか?」
…呆れた。ここまで勘違い野郎だったとは。
きっと、地元の高校でも、こんな感じで幅を利かせてたんだろうな。
アホらしくて、「アホらしい」と答えてその場を離れた。
真面目に答えるのもアホらしくて。
それから、いろんな嫌がらせがあった。
でもまあ、別の仲間がいたから気にしなかったし、そいつらとの付き合いは今も続いている。
16班の連中の現在は知らない。誰一人。
イイ奴もいたんだけどな。
あの日以来、完全に背を向けてしまった。
誰かに強制的に集められた仲間と、うまくいく保証なんてない。
それは今の職場でも同じだ。
誰が悪いとかじゃなくて、単なる考え方の相違で衝突してしまうことも。
だから、無理に仲間意識なんて持たない方がいいと思う。
仲間だからいつも一緒にいる、仲間だから互いの状況を把握する、仲間以外の人と仲良くするのは言語道断。
…付き合いきれない。人間はもともと独りなのに。
「お前、16班抜けんのか?」
このセリフが吐かれたあの日、私は仲間内にこそ敵がいることを知った。
その名のもとに、こちらの自由を奪い、自己満足のために他人を支配しようとする魔物がいることを。
あなたと手を繋いで、どこまでも歩きたい。
今までも、ずっとそうして生きてきた。
あなたが隣にいなくては、心が切なくて孤独に耐えられそうにない。
ずっとそばにいて欲しい。
そして、手を繋いで、二人どこまでも一緒だよ。
「三号室の患者さん、『自分はもうすぐ死ぬんだ』って思い込んでるみたい。今も奥さんがお見舞いに来てるけど、『二人だけにしてくれ』って、手術の成功を伝えに行った担当医まで病室から追い出したって」
その時、三号室の方から、女性の悲鳴が聞こえてきた。
いつもいつも、お世話になってます。
美味しいご飯、ホント感謝しています。
料理なんてまるで出来ない私だから、そこに関しては全部おまかせで早二十余年。
これが無かったら生きてこれなかった。
いや、大げさでなく、食べることは生きることだしね。
美味しくないものばかり食べて生きるのも、そんな人生まっぴらごめんだし。
つまんないプライドで時折ヘソを曲げる私を、責めるでも宥めるでもなく放置してくれるのも、結果としてイイ感じに落ち着く。
本当はもっと雄弁に語りたい私だけど、それを許されたら愚痴だらけの我が家になってしまうかも。
なんか、雲行きが怪しいからこの辺でこの話題は終わり、その方がダラダラと意見をぶつけ合うより正解なのかもしれない。
家族というコミュニティにとっては。
まあもちろん、一番の感謝は、ふたつの宝物をこの世界に生み出してくれたこと。
どう頑張っても、偉そうに語っても、自分には出来なかったこと。
想像すら出来ない痛みに耐え、寝る間を削って命の糧を与え。
そうして育ってゆく我が子と、一緒に楽しむことしかしなかった私には、大黒柱面する権利などなかったのかもしれない。
ありがとうは…こんなところかな。
ごめんなさいは…これらをちゃんと伝えていないこと。
どこかで、伝えようとは思う。
もしかしたら、人生の終わり近くになるかもしれない。
今回のお題は、北野武監督の「HANA-BI」のラストのセリフ。
心中する二人の、奥さんが最後に夫に告げるセリフ。
やっぱり、最後にこのセリフは切なすぎるな。
もっと早く、なんなら、明日の夕食後にでも。
無理かな…?言えるかな…?
奥さんがこのアプリを使ってて、自分をお気に入りに登録してくれてたら、話は早いんだけど。
皆に嫌われたかな。
あんなこと言わなければ良かったな。
皆、楽しそうだった。
気持ちが盛り上がって、心が通じ合っていたのかもしれない。
一人が、「夜景でも見に行こうぜ」と言い出して、こんな時間に?と思ったけど、他の皆はかなり乗り気で。
私だけが、「こんな夜更けに山を登るなんて、なんか怖いし危険だよ」と断った。
少しだけ皆の白けた顔。
でもすぐに、「じゃあお前は先に帰ってろよ」と誰かが言って、笑いながら居酒屋を出ていった。
夜空にぼんやりと浮かぶお月様を見上げながら、一人家路を辿る。
さっきまでの楽しい時間が嘘のように、静まり返った私の心。
今頃、皆はどこにいるのだろう。
どこかの山の頂上で、眼下に広がる綺麗な夜景を眺めているのだろうか。
私の片思いのあの人も、きっと誰かと肩を並べて、夢見るような時間を過ごしているのかもしれない。
切ないけど、でも私は、あんなに酔っていたのに、車で出掛けようとするあの人達についていけなかった。
次の日、昨日一緒に飲んだ職場の仲間達は、誰一人として出勤しなかった。
昼頃になって状況が伝わってくる。
昨夜遅く、山道を下りる途中でカーブを曲がりきれず、ガードレールを突き破って崖下に転落した車が一台。
そこには、私を居酒屋に置き去りにした仲間達が乗っていた。
私が密かに恋をしていたあの人も。
仕事を早退して、警察で事情を説明する。
と言っても、店を出た後のことはまったく分からない。
話を聞いた刑事さんは、別れ際に私にこう言った。
「あなたは、賢明な判断でしたね」
家に帰り、部屋の片隅で、昨夜のことを思い出しながら、自分は何故ここにいるのかと自問する。
あんなに仲の良いグループだったのに。
職場で、こんな友達付き合いが出来るなんて思ってなかった。
ノリが良くて、楽しくて、恋するあの人がいて。
私は賢明な判断など、したのだろうか。
だとしたら、この空虚な心はどうしたらいい?
一緒に夜景を見に行くか、必死で皆を止めるか、どちらかをすべきだったのだろうか。
いや…たとえあの時間に戻っても、私にはどちらの行動も取れなかったと思う。
夜が訪れても明かりもつけないまま、私はぼんやり考えていた。
生きていくことを、楽しむことと割り切ることが出来たら。
正しさに振り回される弱さを、跳ねのけることが出来たなら。
私は今、ここにいて、部屋の片隅で膝を抱えることもなかったのだろうか。
深夜、職場の上司から電話があった。
転落した車から、奇跡的に命を取りとめた男性が救助されたと言う。
それは、夜景を見に行こうと言い出した同僚だった。
両足に力を入れて、立ち上がった。
自分の使命を与えられたような気分だった。
彼に正義を振りかざすつもりはない。
だけど、彼と話せば、ほんの少し自分を許せるような気がする。
自分が、「賢明な判断」をしたと気付かせてくれるような、そんな気がした。
そして私は、眠れないまま、彼らが迎えられなかった朝を迎える。