エルドラドを探して、川を上流へと遡り、そして出会えた理想郷は、黄金の国だった。
男はノートに書き残した。
「これは私の理想郷ではない」と。
誰も辿り着けなかったはずのエルドラドに、彼は一人、到達していた。
アマゾン川上流奥地にあるとされた黄金郷。
そしてそこには、欲望と呪いが渦巻いていた。
彼には分かるのだ。
人の思念が織りなす気流を読み取ることが出来る。
理想郷を目指して、夢と希望に満ちた冒険の末、この地に辿り着き、埋もれるほどの黄金を目にして、我を見失う。
欲望と呪いに翻弄され、この地を後にする者達。
そして、一切を忘れるのだ。
エルドラドを発見したことも。
ありえないほどの巨万の富を手にしたことも。
彼はニューヨークに戻り、古ぼけたアパートに身を置いた。
そしてしばらくすると、再び、夢と希望に満ちたあの冒険が恋しくなってくる。
それはつまり、私達には理想郷が必要だということ。
男はノートに書き残した。
「私の理想郷は、いつだって私の心の中に」
アマゾンの奥地よりも険しく、黄金を積み上げたエルドラドよりも満ち足りた世界が、このオンボロアパートの片隅に築かれる。
その名は、ユートピア。
驚いたことに、このアプリに投稿した作品の文字数が20万文字を超えている。
20万って。そりゃ読み直す気にもなれんわな。
ほとんど垂れ流しに近い。
文章、書いてみたいな、ぐらいの気持ちで始まって、気付けば最近は長文続き。
調子に乗ってんな、俺。
思えば、始まりは、教科書の片隅に書いた落書きからだった。
絵じゃなくて、文字の落書き。
「見てみなよ、夜空に輝く夜光虫。砕かれた星屑と、闇を吸い込んで泳ぐ、暗き海原」
みたいな意味不明なつぶやきを、端っこの空白に小さく書いていた。
誰が見るでもなく、学校を卒業したら教科書は処分されて。
なのに、この文章はしっかりと覚えてる。
まさに、厨二病ってやつだ。
あの頃そんな言葉はなかったが。
なんかカッコイイ言葉が作れたぞ、俺、文才あんのかも、なんて勘違いが助長され、今に至る。
まあ、悪い気はしない。
好きなことを続けられてる訳だから。
ただ、あの頃、このアプリに出会っていたら、もう少し何かが変わってたんじゃないか、とも思うのよ。
いや、スマホがあったら、かな。
教科書の片隅なんかじゃなく、誰かに読んでもらえる場所に書けていたら。
お金とか仕事とかの話ではなくて、自分という人間の心の中の話。
もっと世界が広がって、何かを見い出せていたかもしれない。
そんなことを思いつつ、いや…でも、教科書やノートの片隅に書いたからこそ、あんな小っ恥ずかしいフレーズを表に出せたのかもしれないな、なんて、過去の自分を擁護することも忘れずに。
懐かしく思うこと、それは、あの頃の自分もいろんなことを考えて、文字にして、悦に入って、勘違いして、幸せだった時代があったこと。
そして今もこうしてモノを書くことを楽しんでいられるのは、本当に幸せなことなんだな、と再認識。
20万文字なんて、まだまだだよ。
作品数が20万を超えたら、自分を褒めてやろうじゃないか。
朝の通勤電車。
突然急停車して、アナウンスが流れる。
「先ほど、お客様がこの電車に接触したため、運転を見合わせます」
身動きの取れない満員電車の中、缶詰状態が続く。
お金を払って乗っているのに、どうしてこんな苦難を強いられるのか。
ヘトヘトになって辿り着いた職場では、いつものようにハードワークを強いられる。
こんな人生でいいのか?これが幸せと言えるのか?
朝の通勤電車。
もう何本も見送る。
満員電車が怖くて乗れない。
いつからこんな風になってしまったんだろう。
入社当時は何でもなかったのに。
突然、アナウンスが流れ、人身事故が発生したことを告げる。
もう無理だ。これ以上に人が増えて進まない電車には乗れない。
家に帰ろう。
自分の人生が、微かに音を立てて崩れていくのを感じる。
朝の通学電車。
たくさんの人達が詰め込まれてゆくのを見る。
行くべき場所を持っている人達を羨ましく思う。
私はもう、どこへも行けない。
今日ですべてが終わる。
このホームから、一歩足を踏み出すだけで。
きっと、たくさんの人に迷惑をかけるだろう。
最後まで、こんな人間でごめんなさい。
人生なんて、最初から期待しなければよかった。
朝の通常電車。
様々な人の人生を乗せて走る電車。
私はその電車を運転している責任を感じながら、安全運行を心掛けている。
快適に、迅速に、確実に。
個人的な性格が為せる業だが、これをもう何年も続けている。
視界の先に、ホームの上でふらつく少女を見つけた。
何となく、直感で分かる。
私は、電車のブレーキに手をかけた。
この、四角い箱にたくさんの人を乗せて、毎朝同じレールの上を走り続ける。
人生の成功や失敗など、関係なく日々運行される電車。
物語はいくつも生み出され、流れてゆく。
時には終わることもある。
だけど、誰もが幸せになりたいんだ。
すべての物語をハッピーエンドにしたいんだ。
たとえば、誰もが今日という日を悩みながらも生きて、消えるはずだった一人の少女の命が、かろうじて救われ、生き長らえたことのように。
観客のまばらな映画館だった。
古い映画のリバイバル上映。
公開当時はかなり人を集めた映画だったが、日々新しい作品は作られる。
撮影技術や演出も古臭くなり、出演している俳優もその名前を知る人は少なくなり、それでも名作とされているが故に何度目かのリバイバルとなる。
私はシートに身を沈め、聞き覚えのあるセリフ達を、聞くともなしに聞いている。
…いつの間にか眠ってしまったようだ。
映画は続いている。
このシーンもよく覚えている。
主役の少年の恩師でもある高校時代の担任が、校舎の屋上から大きく手を振るシーン。
大声を張り上げて、校庭の生徒達に別れを告げている…はずだが、声が聞こえない。
あれ?音響設備の不具合かな。
客が少ないからって、このまま上映を続けるつもりじゃないだろうな。
そう思って周りを見回すと、観客は誰もいない。
数人はいたはずだが…眠ってる間に出ていったのか?
スクリーンに目を戻すと、件の担任教師が、校舎の屋上から飛び降りるところだった。
…いや待て。こんなシーンは無かったぞ?
もう何度もこの映画は観てる。
こんなショッキングなシーンがあったら忘れるはずがない。
卒業してゆく生徒達に向かって、担任の先生が「頑張れよ!」とエールを送る感動的な場面のはずだ。
カメラは、落下してゆく教師を追いかけ、耳を塞ぎたくなるような音を立てて、地面に叩きつけられる瞬間を映していた。
「こんな映画じゃなかったですよね」
突然、背後から声をかけられ、慌てて振り返る。
さっきまで誰もいなかったはずの真後ろの席に、男が座っている。
暗がりの中で目を凝らすと、それは、スクリーンの中で校舎から飛び降りた担任教師だった。
いや…教師役の俳優と言うべきか。
「私も反対したんですがね。こんな脚本は良くないと。監督がどうしても聞き入れてくれなくてね」
状況が分からない。
何が起きているのか…この暗がりの中で…スクリーンにはエンドロール。
「この中に、私の名前、見つけられますか?」
この役者の名前…確かに、覚えていない。
「どんどん忘れ去られてゆくんですよ、私達は。単なるお芝居の中の登場人物として、存在していないものとして」
何の…話だ?闇が濃くなってゆく。
出口は…どこだ?
エンドロールが終わり、暗転。
しばらくして、照明が灯る。
後ろの席には、誰もいない。
だが、周りの席にはちらほらと観客が座っている。
元に…戻った。
何だったんだ、今のは。
映画の途中で眠ってしまって、夢を見たのだろうか。
それ以外に考えられない。
あの教師が地面に叩きつけられる音が、耳に残されている。
そんなシーンは無かったはずなのに。
映画館を出て、スマホであの役者を調べる。
…数年前に亡くなっていた。
そして、今日が命日だという。
死因は明かされていなかったが、あの音が耳から離れない。
そういえば、こんな名前の役者だったな。
「名前、覚えたよ…いや、待てよ」
映画のタイトルで検索して、彼が演じた教師の役名を調べる。
「覚えておいて欲しかったのは、こっちの名前なのかもしれないな」
あの、全身全霊で演じた、彼の代表作。
また、リバイバル上映されることがあるなら、きっと観に来るだろう。
彼の熱演が、忘れ去られることのないように。
人々の記憶の中で、葬り去られることのないように。
ジャズが流れる喫茶店。
漂う珈琲の香り。
窓際のテーブル席に座る二人。
静かに、別れ話を進めている。
「この店にも、何度も来たよね」
「うん。あなたはいつも珈琲、私は紅茶が多かったかな」
「ここのコーヒー、美味いんだよな。家でこの味は出せない」
「よくそう言ってたね。私もここの紅茶、好きだったな」
「別れたら、この店も来なくなるかな」
「マスターに聞こえたらショック受けちゃうよ」
「常連さん、あんまり多くないからな、この店」
「やめなって」
別れの理由は、要するに性格の不一致。
よくある話だ。
人の性格なんてそれぞれ違うんだから、不一致で当たり前のはずだが、二人は別れてゆく。
「私は来るよ、この店。この後もずっと」
「俺もここのコーヒー好きだからな。たまに来ちゃうかも」
「ちょっと離れた席で見かけたらどうする?なんか気まずいね」
「友達として声をかけたらいいんじゃない?やあ、久し振り、って」
「新しい恋人と一緒だったりしたら?その時は他人のフリだよね」
「新しい恋人とは…この店に来ちゃダメじゃない?喫茶店なんて他にいくらでもあるんだから、他に行けば」
お店にとっては迷惑な話だ。
お客さんが減ってしまう。
いや、そんなことより、この二人にもう会えなくなることの方が寂しい。
私が淹れた珈琲を、心から美味いと言って飲んでくれる彼、それを幸せそうに見つめながら、静かに紅茶を飲む彼女。
私はずっと二人を見てきた。
二人がいつか、家庭を持つ日が来るだろうと勝手に思い描いて。
「新しい恋人なんて、今は考えられないね」
「ホントかよ。案外すぐに誰かとくっついたりして」
「やめてくれる?あなたのそーゆー軽口が…あ、ごめんなさい」
「いや…ほら、お前モテるからさ。きっと、他の男がほっとかないよ」
「うん…ありがと」
「じゃあ、そろそろ出ようか。駅まで送るよ」
二人がテーブル席を離れ、私がいるレジまでやって来る。
静かで、小さな店だ。
聞いてはいけないと思いつつ、耳に入ってしまう話もある。
いつものように、彼がレジの前に立ち、お会計を済ませた。
「ごちそうさまでした。相変わらず、コーヒー美味かったです」
「そうですか。それは良かった」
「また来ますね。それじゃ」
いつもなら、彼の後ろを一礼して通り過ぎる彼女が、レジの前で立ち止まって、
「紅茶も美味しかったです…ずっと」
「そうですか。また来てくださいね」
「はい。必ず来ます」
彼と一緒に、と言いたかったが、そんなことを言える立場ではないことも分かってる。
私は、この二人の人生のほんの一部、すれ違う程度の関わりしか持っていない。
これ以上、何も言えるわけがない。
「あの、このお店の香りって、ほとんど珈琲のものなんですかね。すごく好きなんですけど」
「いえいえ、うちは珈琲とともに、紅茶の香りも楽しんでいただけるお店です。このふたつが混ざり合うとね、さらにイイ香りが生まれるんですよ。ライバルのようで、恋人のようで、友達のようで」
彼女は薄く微笑むと、「ごちそうさまでした」と言い残して、店を出ていった。
そしてその後、彼らの姿を見ることはなかった。