夜道で女とすれ違った。
すれ違いざま、「ついてきて」と耳元で囁かれた。
振り返ったが、女は淀みなく去ってゆく。
「何だったんだ今のは?」
前を向くと、目の前に一人の男が立っていた。
ピエロのマスク。
血まみれのシャツ。
右手にサバイバルナイフ。
もう、逃げるしかない。
何とか逃げきった。
「何だったんだ今のは?」
このセリフしか出てこない。
女は、私を助けようとした?
だが、女はピエロのいた方向からやって来た。
平然と、歩いて。
ピエロは俺だけを狙っていたのか?
俺が逃げ出した時、まだ近くに女はいたはずだ。
姿は見えなかったが。
考えても分からない。
とにかく、今は無事に家に帰ることだ。
警察に行くことも考えたが、何の被害も出ていないし、ピエロが単なる仮装だった可能性もある。
それでも物騒極まりないが。
正直なところ、面倒なことに巻き込まれたくなかったのが、本音かもしれない。
家に着いて、風呂に入り、落ち着いたところで、インターフォンが鳴った。
ドアを開けると、制服姿の警察官が二人。
「近所で、悲鳴とか、聞こえなかったですか?」
「何があったんです?」
「女性がね、殺されたんですよ。」
「もしかして…ピエロの格好をした…」
「え?なんでそんなことを?」
「あ、いや、見たんですよ。とゆーか、襲われました。何とか逃げ切りましたけど」
「襲われたって…強姦魔ですよ。男性のあなたには…」
「強姦魔?いや、あれは殺人鬼ですよ。血だらけでナイフを持ってた」
「目撃者によると、それはハロウィン用の仮装じゃないかと。ピエロのマスクで顔を隠していたそうですね」
「仮装…」
その可能性も考えたが…それでも、本当に人を殺したなんて…。
「実は、最近同一犯と思われる犯行が続いてましてね。この辺りに住む女性には、注意喚起していたんです。ピエロの仮装をした強姦魔が出没しています。もし、後をつけられたりした場合は、やむを得ないので、どなたか男性に声をかけて知り合いのフリをしてもらってください、と」
「知り合いのフリ…?」
彼女に、「ついてきて」と言われた。
あれは…助けて、という意味だったか。
女性しか襲わない強姦魔なら、そこに男性がいるだけで抑止力にはなる。
だけど、仮装とはいえ、あんな格好で目の前に立っていたら…。
私は、逃げてしまった。
その後、彼女は捕まってしまったのだろうか。
それとも、別の女性か。
いずれにせよ、ちゃんと状況説明がなくちゃ、助けられるものも助けられないじゃないか。
私は悪くない。
私のせいじゃない。
次の日の朝。
昨夜の警察官から無理矢理聞き出した、女性の殺害現場に赴いた。
私があのピエロと対峙した場所から、ほんの数百メートルしか離れていない。
被害者はきっと、昨夜私が会った女性だろう。
開店直後の花屋で買った花束をそっと置き、手を合わせた。
心が苦しくて、座り込んだまま、立ち上がることが出来ない。
あのすれ違いが、単なるすれ違いでなく、彼女の命運を分けるものになってしまった。
そして、その命運を分けたのは、私の行動だった。
その日は仕事を休み、家に帰って作戦を練った。
あのピエロ野郎を捕まえる。
私は今も、あのマスクの下の目を覚えている。
彼女についていくことはもう出来ないけれど、復讐することならまだ出来る。
やってやる。
もう、彼女との気持ちのすれ違いが起こらないように。
私のこんな気持ちを、払拭するために。
幸せな気持ち。
誰かに会いたい気持ち。
たくさん話をして、お互いに笑顔で過ごしたい気持ち。
誰かのために頑張って、感謝されて認められて、自分をもっと好きになれそうな気持ち。
秋晴れの空の下、何もかもがうまくいくんじゃないかと勘違いしてた。
空が晴れ渡っていても、悲劇は起こるべくして起きる。
ラーメンを食べていたら、隣の席でおっさん同士の喧嘩が始まった。
おいおい勘弁してくれよ、と思いながら避難すべきか考えていたら、おっさんがおっさんを突き飛ばして、突き飛ばされたおっさんが俺のラーメンを吹き飛ばした。
マジかよ。まだ、二口も食べてないのに。
とりあえず、エスカレートしそうな二人を宥める。
「皆の迷惑になるからやめましょうよ」
「うるせぇ!関係ない奴は引っ込んでろ!」
いやいや、ラーメン吹っ飛ばされて、かなりダメージ食らってるから、関係なくはないのよ。
でも、メンドくさいから言わない。
店員が厨房から出てきて止めに入った。
かなりの巨漢。こんな店員がラーメン作ってたのか。
チャーシュー頼めばよかったかな…なんて失礼極まりなく。
巨漢店員のおかげで、おっさん達の喧嘩は瞬時に治まった。
俺の仲裁はこんなにも無力なのね。
ラーメンは、店からの厚意と謝意で、新たに作り直して提供された。
しかも、グレードアップしてチャーシュー麺。
何の力にもなれなかったんだから、店から礼を言われる筋合いはないのだが、当のおっさん達は、喧嘩を止められたらすぐに仲直りしやがって、俺に謝ることもなく二人仲良く店を出ていった。
何なんだよ、まったく。
食事を終えて店を出ると、清々しい空が広がっていた。
幸せな気持ち。
誰かに会いたい気持ち。
たくさん話をして、お互いに笑顔で過ごしたい気持ち。
誰かのために頑張って、感謝されて認められて、自分をもっと好きになれそうな気持ち。
秋晴れの空の下、何故か、「まあいいか」とすべてを許す気持ちになれた。
チャーシュー麺、美味かったな。
またあの店に、食べに行こう。
夕暮れ時、君の笑顔を思い出す。
忘れたくても忘れられない。
僕の心に刻み込まれた笑顔。
幸せそうに笑ってた。
学校で僕を見つけると、本当に嬉しそうに駆け寄ってきて、まるで寄り添うように、僕に身を寄せてきたね。
初めて屋上に呼び出されて、君の気持ちを聞かされた時、心臓が跳ね上がったのを覚えてるよ。
ドキドキして、時間よ止まれと願ったっけ。
いつも僕の温もりを感じていたかったのか、そっと僕の持ち物を持っていってしまうこともあったね。
ちょっと困ったけど、たまに思わぬところで見つけたりして、何とか学校生活は乗り切ったよ。
お茶目な君のことだから、僕とかくれんぼでもしてるつもりだったのかな。
君が友達を紹介してくれて、皆で校舎裏で話したこともあったね。
お金に困ってる子がいて、貸してあげたら凄く喜んでくれた。
僕もそんなに余裕があった訳じゃないけど、親のお金とかも使えたし、君の友達だから何とか力になりたかったんだ。
何度か、君を怒らせてしまった。
そんな時、君は全身全霊で僕にぶつかってきたね。
本当に僕のこと、想ってくれていたんだね。
君の想いに圧倒されて、僕はボロボロになってしまったけれど、最後には君が笑ってくれた。
それだけで僕は嬉しかった。
今日だけでも、救われた気持ちになれたから。
夕暮れ時、君の笑顔を思い出す。
忘れたくても忘れられない。
僕の心に刻み込まれた笑顔。
幸せそうに笑ってた。
僕を思う存分イジメて、幸せそうに笑ってた。
僕は忘れないよ。
また君に会いに行くよ。
カーテンの隙間から、やわらかな光が差し込む。
世界が終わっても、いつも通りの朝は来る。
…いや、この営みが続いているうちは、世界は存続していることになるのかな。
いずれにせよ、のどかな朝だ。
鳥のさえずりさえ聞こえないけれど。
20XX年。地球は滅亡の一途を辿る。
原因は世界規模のパンデミック。
コロナの比じゃなかった。
人類はその数を減らし、文明はみるみるうちに廃れてゆく。
都内の電車は動きを止め、オフィス街からはスーツ姿が消えていった。
スクランブル交差点を野良犬が群れをなして、我が物顔に渡ってゆく。
カーテンを開けると、暖かくやわらかな光がこの身を包んだ。
生きている。その実感が湧いてくる。
窓の外には、眼下に広がる人気の消えた街。
こんな感じで世界が黄昏てゆくが、生き残った人達はそこかしこにいて、かろうじて繋がっているライフラインを希望に、日々を生き長らえている。
君からのLINE電話。
「どーしてる?」
「どーもしてないよ。日なたぼっこかな」
「もーしょーがないよね。やることないもんね」
「今日、配給があるみたいだよ。そっちはどう?」
「うちの方は昨日あった。なかなか豪華だったよ」
「ホントに?お腹空いてさ。コンビニ漁りに行こうかと思ってたところ」
「やめた方がいいよ。感染源が疑われてるらしいから」
コンビニのおにぎりが感染源だと騒がれたのも今は昔。
お店は営業をやめ、野良犬や不届き者が根こそぎ商品を奪っていって、ほとんど何も残されてはいない。
それでも、バックルームには未だ商品ストックがあるんじゃないかと淡い期待を抱いている。
まあ、配給が貰えるんなら、泥棒の真似事をする必要もないか。
出来ることなら、こんな世界に生きても、清廉潔白でいたい。
「明日、遊びに行ってもいいかな?」
「いいよ。何のお構いも出来ませんけど」
「君がいればいいよ。他には何もいらない」
「あれ?ずいぶんくすぐったいこと言ってくるね」
「そっちの配給、豪華なんだろ?僕もそっちに住もうかな」
「もしかしたら、そっちの方が豪華かもよ。そしたら、私がそっちに行こうかな。高台に住むの、憧れだったんだよね」
「いつでもどうぞ。妹が使ってた部屋、空いてるから」
「…妹さんの代わりにはなれないけどね」
ツライ出来事もあったけど、今日の空気は温かい。
僕たちはこの世界で、今までと違う人生を送ることになるだろう。
すべてをやり直して、新しい世界を築いてゆく。
君となら出来る気がするんだ。
やわらかな光に包まれたこの部屋に、君を招き入れることから始めよう。
「探偵さん、犯人が分かったんですか?」
「えーと、犯人は彼ですね、きっと」
「…きっと?断定はされないんですか?」
「いや、状況証拠はそれを物語ってるんですけど、私はその時、現場にいなかったんで」
「それはそーですけど、ここであなたに犯人を名指ししてもらわないと、この事件が解決しないじゃないですか」
「名指ししてるじゃないですか。犯人は彼ですよ、たぶん。あとは警察にお任せします」
「…それじゃ、あなたは何のためにここへ?」
「探偵ですから、推理をするためです。推理、しましたよね?犯人はおそらく彼です」
警察は彼の推理を参考に捜査を進めた。
結果、犯人と名指しされた男には、事件当時、完璧なアリバイがあることが分かった。
「違いましたか。それじゃ…彼女ですかね、もしかすると」
「探偵さん、勘弁してくださいよ。前回の彼にはアリバイがあったじゃないですか。状況証拠が物語ってるって…」
「状況証拠というか、状況を見て私が推理した結果、です。事件当時、私は現場にいなかったので、彼が他の場所にいたという事実は知りません」
「いやいや、事件関係者に話は聞くでしょ。それぞれのアリバイだって確認するはずでは?」
「本人にアリバイなんて聞いたって、嘘つかれたら終わりじゃないですか。犯人が本当のこと言います?」
「いや…それが本当か嘘かを調べるのも、あなたの仕事では?」
「そんなの分かんないですよ。こんな雪山の別荘で、監視カメラもなければ人の目もほとんどない。どうやって調べろと言うんです?」
「そんな状況だからこそ、探偵のあなたを呼んだのに…まあいいです、それで、彼女が犯人だと?」
「ええ、私の推理が正しければ」
「それが一番不安なんですが…でも、彼女は目が不自由で、介護がないと階段を下りることすら危険なんですよ」
「え?そーなんですか?じゃあ違いますね」
「勘弁してくださいよ…」
古い洋館。資産家の別荘だったが、その主が何者かに殺された。
「そーいえば探偵さん、知ってます?この洋館、ご主人が亡くなってしまったので、売りに出すらしいですよ。しかも、かなりの破格で」
「なんですと?本当ですか?」
彼の表情が生き生きとしてきた。
事件の犯人探しの時には見られなかった熱心さで、屋敷内のあらゆるところを見回している。
まるで探偵のような、鋭い眼差しで。