鍋が沸き立ち火を弱める。シチューを作るつもりがルーを忘れていた。面倒になって、買い置きの鍋つゆを適当にぶちまける。
ここ数日は春みたいな陽気だった。気温が元に戻っただけなのに、前より余計に寒い。心を木枯らしが吹きすぎていく。
「最初から」
つぶやいた言葉が、じゃがいもと玉ねぎしか入っていない鍋に溶けた。
「あったかくなんかしなきゃいいのに」
どうせ冷たくなるのなら。
『木枯らし』
フックを左手で軽く押さえ、できるだけ静かに受話器を置く。隣から伊田島さんが手のひらを上に向けて促すような仕草をした。デスクの上に、GABA入りチョコレートが置かれている。『ストレスと戦うあなたに』。
いわゆるクレームの電話をストレスだと捉えたことはない。商品になにか不満があれば、ネットにクソ評価をつけて自分なら二度と買わない。わざわざ時間と手間をかけてお気持ち表明してくださるのだから、むしろ感謝である。
とはいえカロリーを消費したことに違いはないので、礼を言ってさっそく封を切った。
「いつもながらすごいですよね」
伊田島さんが、同じジップ式のパッケージを手の上で傾ける。
「なにが?」
「浪江さんの代弁力というか、納得させる能力?」
チロッと目だけで右上を見ながら疑問形で言われ、チョコレートをガリガリ噛んだ。
「そうかな」
思ったより甘い。
「別にうち、そういう専門部署ってわけでもないのに。様式美さえ感じます」
「単なる慣れだと思うけど」
「いえ。美しいの域に達してますね」
伊田島さんの言葉は言い得て妙だった。
似たような用件を受けるうち、形式のようなものが見えたのは確かだ。もっとも、気持ちが伴っていないとすぐに見透かされてはしまうが。
「まあ、長くやってるとね」
いまはもう居ない同僚の姿が浮かび、チームの昼休憩を示すアラームにひっそりとかき消された。
『美しい』
眠い……眠すぎる……。
いつものように自席に座って買ったばかりのおにぎりのフィルムを剥いだところで力尽きた。食欲より睡眠欲が買ってるなんて信じられない。よく会社まで辿り着けたものだ、私。
半ば押し付けられるようにして借りたDVDを、結局最後まで一気見してしまったのだ。すれ違い方があるあるだなーと思いながら、そろそろ1時かと思ったあたりまでは覚えてるんだけど、次に時計を見たのは外が明るくなったせいで。
「先輩さては、最後まで見たでしょ?」
隣に座った水谷さんが「おはようございます」をすっ飛ばして本題に切り込む。
「いやもう、とにかく余韻がヤバくて……!」
私の頭に走馬灯のように今朝見た風景がなだれ込んだ。
「こんなに綺麗だったのかって思ったね、この世界は」
我ながら馬鹿みたいだなと思いながらも上手く頭が回らず、握り締めたおにぎりを変形させる勢いでそれだけ言うと、
「なんですかそれ」
ノートパソコンを開いた水谷さんは「なんですかそれ」と冷たく言い放った。あれ? もしかして温度感違う感じ?
ロックコードを打ち込んだ指先が止まる。
「感想として、最っ高すぎます」
前を向いたまま呟くと、彼女は茶色がかった髪をふわりと揺らし、結んだ口許を手でぐっと覆った。
#300『この世界は』
どうしてお日さまは眩しいの?
どうして風はふくの?
どうしてひとりはさみしいの?
誰かとあるくと、どうしてこんなにたのしいの?
幼い頃母を困らせた質問の答えが、今頃わかった気がする。
青に変わった交差点の向こうから、答えが真っ直ぐ歩いてくる。
『どうして』
日が沈んだ後も明るかったらいいのに。
そう夢見た人がいるから、電気は生まれたんだろうね。
最初にそう思ってくれた人のお陰で、私たちは夜に出歩けてる。
想像できることしか、人は叶えられないから。
あなたの隣にいる夢を、私ももう少しだけ。
『夢を見てたい』