わたしには、この世界が色彩に見えるよ。
来る途中で読み終わった本について話すあたしに、君はそんなようなことを言った。
あたしの頭に、君と一緒に観た絵画が浮かぶ。シャガールのブルー、魁夷のグリーン。惹かれる色彩は君とどこか似ていた。
長い映画を見終わって、暗い劇場から外に出た瞬間の、景色が輪郭を際立たせる感じ。真夏のプールから見上げた空の眩しさ。あたしにとって色彩は、たぶんなにか特別の響きがある。
それ以上なにも言わず、君は薄く微笑んだ。あの時君に線を引かれた。色とりどりの綺麗な線を。
『色とりどり』
建物に入る前は冷たいを通り越して痛みさえ感じた手が、ぽかぽかと熱を発している。エスカレーターで後ろに立ち、茶色いつむじを見下ろして、右手を閉じたり開いたりした。サラサラのロングヘアが不意に振り返って微笑み、また前を向いた。そこにいるのを確かめるみたいに。
インフォメーションに掲示された天気予報によれば本日の気温は今季最低で、日中もほとんど上がらないらしい。なのに身体の中がこんなにも温かい。ショッピングモールの空調が効きすぎていただけではないだろう。
自動ドアを二度くぐると冷たい風が吹き付けた。
「あ」
こちらを見ることなく綺麗な指が天を指す。横顔は耳まで赤い。
「雪」
落ちてくる白と、もう友だちじゃなくなった隣と。とちらをも指す音だけど、明確に異なるアクセントで呼びかける。
「ユキ」
やっとこっちを見てくれた赤らんだ指先に自分のそれを重ね、そっと引いて歩き出す。
『雪』
どんな顔で手を振ったものやら、あまり記憶になかった。良くない考えがわっと襲ってきて頭が爆発しそうになる。感情が渦巻く。考えが追いつかなくなる。
『オッケー、多分そっちじゃないんだ。この方法は一旦おしまい』
君の留める声がする。立ち止まり、ようやくそっと息を吐く。
自分ではない視点で考えること、反対の意見を想像すること。そのうえで、嫌だと感じたらやめること。あの頃よりは随分上手くできるようになった。
君と離れてからも、私の中にはたぶん君がいて。君ならどう言っただろうと考えればなんて乗り切れる気がしてる。
そばにいてもいなくても、一緒にいることはできるから。最後に握った手のあたたかさを思いながら、断りの連絡をするために私はスマホを取り出した。
『君と一緒に』
自動ドアを抜け角を二回曲がると、バス停はすぐに見つかった。寒々しい日陰のベンチに腰を下ろす。
初老の小柄な男性がやってきて、しげしげと時刻表を眺め、ひとつぶん空けてベンチに座った。けれど時折身体を道路側へ傾けるようにして、彼はしきりになにかを気にしている。青空の下、巣穴に立って周囲を窺う動物……最近なんかで見たなあ。名前なんだっけ。
「遅いですよね」
そうだ、プレーリードッグ。思い出した瞬間、話しかけられ、一瞬なんのことか分からなくなる。
「バス」
笑ってつけ足されて、おやと思った。
「次、四十五分ですよね? まだ二十八分ですから」
プレーリーさんは不思議そうな顔をしたが、
「あっ、そうか」
と小さく叫んだ。
「もう平日でしたねえ」
年末年始の名残なのか、土日ダイヤを見ていたらしい。
「教えていただいて良かった。ありがとう。ちょっと時間潰してきます」
プレーリーさんは丁寧にお辞儀をして、手に持った茶色の帽子をかぶり直し駅の方向に歩いていく。
彼の行く手をやわらかな陽射しが照らしていた。
『冬晴れ』
何日も続いた雨がやんで、ほかほかとあたたまった部屋で録画しておいたドラマの続きを見る。CMのたびにベッドのうえで足を伸ばしたり腰を捻ったりしながら、幸せってこういうことだと私は唱える。
ハーブティー、飲む?
声が聞こえた気がして手が止まる。キッチンで沸かしたお湯を真剣な顔で湯呑みに移し替えて。「適温は70度だから」なんて私に説いた横顔。舌で触っては痛みを確かめた口内炎はいつの間にか消えていた。
右隅に陽を反射してのっぺりとした画面の中で、主人公とヒロインが寄り添う。ひとりでは成し得ないこと。あなたが隣に笑うこと。失ってはじめて、そうだったと思えること。
『幸せとは』