大通りに出ると足元でイチョウの葉がカサカサ鳴った。立ち止まったら、つないでいた手がピンと伸びてあなたが振り向く。
「どうしたの?」
答えの代わりに、折り重なる黄色をつま先で弾く。地上数センチで大小さまざまな葉っぱが小さく舞った。
あなたがなにかつぶやいた気がして、私はその顔を見上げる。前にもこんなことあったなと思う。
「なに?」
今度は私が尋ねたけど、あなたは笑ってそっと私の手を引いた。すべて肯定してくれるようなその笑顔に果てしない安心を覚える。
よく晴れたイチョウ並木を、私たちは駅に向かってまた歩き出す。
久しぶりに見たおじいちゃんの夢だった。記憶よりずっと若かったけど、おじいちゃんだとすぐわかった。
戦争の話、昔の旅の写真、紺色の箱の煙草と、ドーナツ型に吐かれた煙。覚えているのはそんなことだ。肺を患って長期入院した挙句、秋の朝に静かな終わりを迎えた、おじいちゃんの旅路。
窓を開けて空を見上げ、私は心でつぶやいてみる。
また夢に遊びにきてね。おじいちゃんとあの電車に乗って、心の旅路を一緒にたどってみたいから。
『心の旅路』『静かな終わり』
やりたいこと叶えたいことを100個書けという宿題を、私は8割しか果たせなかった。
ノートをめくっていた指先が、ページの端にかかる。
「えっ?」
あなたはためらうことなく、ビリビリとページを破り取った。破った先から紙片が更に細かく引き裂かれる。
「あっ、あっ、あっ」
手を宙に差し伸べ間抜けな声を上げるだけで何もできない私に、
「アシカじゃないんだから」
とあなたが笑った。
「悩むために書いてもらうんじゃないって言ったよね?」
「……はい」
「これはいわば、凍った鏡みたいなものでしょ」
大きめの紙吹雪と化した私の『なりたいことリスト』が目の前で振られる。
「映したい現実を映すためには、今と違うやり方を試さないと。そのために一旦割ったの、あなたの中の凍てつく鏡」
割るか替えるか、一緒に考えましょう。
『凍てつく鏡』
初めての場所は、いつもドキドキする。
地図アプリの導くままにだらだらした坂をのぼった。衛生の誤差なのか現在地があちこちさまよい、目的地を一度通り過ぎてしまう。
坂の中腹のささやかな階段を降りる。壁一面に、おびただしい数のポスターやチラシが貼られていた。下の方に埋もれた日付は5年前のものまであったのに、求める知らせは見つけられない。
階段を降りきった、教卓のようなカウンターでチケットを見せると、唇に2つピアスを刺した女性スタッフは、右手奥を示し低い声で「ワンドリンク制です」と言った。
バーでジンジャエールを買って端の方に立つ。ステージ前には数人の客しかいなかった。ライブハウスと書かれていたのでもう少し広い場所を想像していたが、50人も入ればいっぱいになりそうだ。
すぐに客電が落とされ、ステージが穏やかな青に染まる。演目も出演順もまるで分からなかった。何時間待つことになるかも知れない。それでもこんなにドキドキするのは、ここが知らない場所だからだ。
ライトが反射する白に青が交じる。まるであの日の雪明かりみたいだった。最後に交わした言葉さえもう記憶がおぼろげなのに、雪の中の景色だけを今も鮮明に覚えていた。私はカップを握りしめる。
やがて青が濃さを増すと、海の底に沈む雪のひとひらのように君がふらりと現れた。
『雪明かりの夜』
案内されたベンチに腰を下ろし、渡された番号札に目を落とした。最近は番号だけじゃなくて、NとかRとか用件ごとにアルファベットがつく。手の中のRが一体何を指すのか、私は知らない。
戸口に立って誘導してくれるのは、いつきても同じ係員だった。たどたどしい日本語で「ぶんのー」とか「のーふ」言われると、なんだか異国の言葉のように聞こえる。
不意に左手の奥で盛大な拍手が起こった。
「えー、このあとここのドアを出たらですね、皆さんここでのことは一切忘れましょう」
年嵩の男性が真面目くさって話し始めたところで、番号が呼ばれた。
「すみませんうるさくて」
椅子に座るや謝られる。今日で最後なんです、年内。
「くれぐれも、各自の生活や、ご家族のことに心を向けて下さい」
男性は話しつづける。そういえば、この区に来てから窓口対応に不満を持ったことはない。
「いえ」
ここの皆さんの年末が穏やかであるようにと内心で祈りを捧げて、私は保険料分納の相談を切り出した。
『祈りを捧げて』
クリスマスの待ち合わせにも、君はやっぱり遅刻してきた。
「またどっか寄ってたの?」
「うん、みて。売り切れたら終わりだったから」
君がぐりんと身体をひねる。トートバッグからネギの束がはみ出ていた。
「それ背負って地下鉄乗ったんだ」
「うん。ぬた、また作れるね」
また、ぬた。また、ぬた。
楽しげに韻を踏んで君が歩き出す。トートとともに右へ左へと揺すられるネギは、なんだかつやつや輝いて見えた。マフラーの赤と相まって完璧なクリスマスカラー。
私が『ぬた』を作ったのはもう何年も前のことだ。初めてできた相手が嬉しくて、いろいろ料理を試しては君に試食させていた。ぴょこぴょこと弾むネギを見て私も急に思い出した。完成したぬたの、とろりとした味噌の色まで。
君はたまに時間の概念をひょいと飛び越える。小さなぬくもりを大事にしまっては不意に目の前に取り出す。昔確かに存在していた、恥ずかしいほどあたたかな記憶を。
『遠い日のぬくもり』