未知亜

Open App
11/25/2025, 9:41:22 AM

 機嫌の良い時、まんざらでもない時、君は二回髪をかきあげる。犬の尻尾みたいだなあと毛先を眺めて私は思う。

 遅刻するよと眠そうに呟く頬を撫でて、実は今日休み取れたと伝えたら、ギッと音がしそうなほど瞳が見開かれた。
「マジで!?」
「マジで」
「無理してない?」
「……してない」
「ほんと?」
 下から覗き込まれ、返事が遅れる。嫌味をよこした部長のあばた面がよぎる。
「こういうのは、無理って言わないもん」
 嬉しくないの? と目を見て訊いたら、
「さあ、どうかな〜」
 面倒くさそうに目を逸らして、指先が二回、右の髪をかきあげた。

 大事なものは何なのか、知らせる鍵を君はすぐ隠すけど。不意に開けてくれるのもまた、君だけなんだ。

『君が隠した鍵』

11/24/2025, 9:59:07 AM


 あなたのこと育てているなんて思ったことは一度もなかった。むしろこちらのほうが、親にしてもらって、育てられていたよ。
 長い間もらってばかりでごめんね。これ以上時間を奪わずに済むと思うと、どこかホッとしてる部分もある。この先のあなたを見られないことは残念だけど。

 ねえ、いま夕焼けがとてもきれい。
 消える前にきてくれたら。一緒に見られたら。


 
『手放した時間』

11/23/2025, 7:54:13 AM


 一緒に出かける前、母は決して振り返らない。
 何時に出るよとか、早く支度しなさいとか、鏡の前から声を掛けるだけで、持ち物を一緒に確認したり髪をとかしてくれたり、そんな記憶はなかった。
 バタバタと鍵を掛け、私をエレベーターの中に追い立てる頃になってようやく目が合う。
「顔洗ったの?」
 と指で目尻をごしごしこすられた。
 近づいた紅色から、デパートの匂いがした。

『紅の記憶』

11/22/2025, 9:22:23 AM


 初心者向けパソコン講習で隣になった人だった。小声で尋ねられた操作をたまたま私が知っていて、大げさに感謝された。帰り道の方角が同じでなんとなく一緒になった。
 初めて合った相手だから気軽に話せるのだろうか。親のこと、出自のこと、普段の悩み事。電車のなかで彼女は淀みなく話を続けた。さっき講師が言っていたようにAIに聞いてもらえばいいのに。
 夢を語りだした彼女に話を合わせる。とっくの昔に諦めた夢は、言葉を重ねるほど薄っぺらく床にこぼれた。
「ありがとね楽しかった」
 名前も知らない相手が先に電車を降りていく。空いた壁際の席に私は移動する。
 地層のように重なった夢の断片から、どろどろと血が流れていく。

『夢の断片』

11/21/2025, 9:58:37 AM

 ドライヤーのスイッチを切り、由実は溜息をついた。髪の毛って、乾いたと思ってもしばらく置くとまた湿ってくるのはなんでなんだろう。

 自分より長い髪の妹に言ったら「そんなことあるぅ〜?」と一蹴されて終わった。由実の髪は肩に届くか届かないかくらいのボブだが、それでも多少時間がかかる。それで余計なことばかりぐるぐるする。あんなこと言うんじゃなかったかな、とか。

 今日の千佳子の反応は、たくさんあった未来うちの、ほんのひとつだったのかもしれない。選ばなかった未来、失ったものばかりがいつだってクローズアップされがちだ。

 再度スイッチを入れ、手首から大きく振って前髪に風を当てた。一部分だけに熱を与え続けちゃダメなんだよと、千佳子が言ったから。

 過去に未来にと暗い思いを馳せるのは性に合わない。ドライヤーを片付けた由実は、スマホを開いた。週末の待ち合わせ場所を送ってみる。
 この現実を自分の手で、見える未来に変えたい。

『見えない未来へ』

Next