初心者向けパソコン講習で隣になった人だった。小声で尋ねられた操作をたまたま私が知っていて、大げさに感謝された。帰り道の方角が同じでなんとなく一緒になった。
初めて合った相手だから気軽に話せるのだろうか。親のこと、出自のこと、普段の悩み事。電車のなかで彼女は淀みなく話を続けた。さっき講師が言っていたようにAIに聞いてもらえばいいのに。
夢を語りだした彼女に話を合わせる。とっくの昔に諦めた夢は、言葉を重ねるほど薄っぺらく床にこぼれた。
「ありがとね楽しかった」
名前も知らない相手が先に電車を降りていく。空いた壁際の席に私は移動する。
地層のように重なった夢の断片から、どろどろと血が流れていく。
『夢の断片』
ドライヤーのスイッチを切り、由実は溜息をついた。髪の毛って、乾いたと思ってもしばらく置くとまた湿ってくるのはなんでなんだろう。
自分より長い髪の妹に言ったら「そんなことあるぅ〜?」と一蹴されて終わった。由実の髪は肩に届くか届かないかくらいのボブだが、それでも多少時間がかかる。それで余計なことばかりぐるぐるする。あんなこと言うんじゃなかったかな、とか。
今日の千佳子の反応は、たくさんあった未来うちの、ほんのひとつだったのかもしれない。選ばなかった未来、失ったものばかりがいつだってクローズアップされがちだ。
再度スイッチを入れ、手首から大きく振って前髪に風を当てた。一部分だけに熱を与え続けちゃダメなんだよと、千佳子が言ったから。
過去に未来にと暗い思いを馳せるのは性に合わない。ドライヤーを片付けた由実は、スマホを開いた。週末の待ち合わせ場所を送ってみる。
この現実を自分の手で、見える未来に変えたい。
『見えない未来へ』
「なんかさ、いつも寒くなってから短くしてるよね」
君が毛先をもてあそびながら言う。
「乾かすのが面倒だからね」
欠伸で雑になった語尾にクスクス笑う声が重なる。
「風、冷たいでしょう?」
「冷たいけど」
軽くなった頭をあたしは声の方へ擦り付ける。温かい手が何度も撫でる。
冷たい風が吹き抜けるほど、くっつける部分が増える気がするから……なんてことは、やっぱ言わないでおく。
『吹き抜ける風』
フォトアプリを開いて手が止まる。画面上部に表示された写真は、豆腐となめこの味噌汁だ。お椀のそばに、ピースサインが映り込んでいた。『八年前』というキャプションつきで。
ふたりで選んだテーブルクロスが見切れている。それだけで、部屋の様子が一気に蘇った。前の前に住んでいた家だ。
交代で作った食事を毎日撮影していた気がする。こんな風に映り込んでいたなんて、これを見るまで気づかなかった。
淡い光のランタンに、心がふんわり照らされた気がした。
『記憶のランタン』
今年一番の寒気が、と日々言われるようになった。毎日のように更新するその重なりが冬を連れてくるのか。トーストをかじりながら私は考える。
誰もいないと自分からくっついてくれる冬のあなたが好きだった。薄暗い路地で陽の翳る公園で、分かち合うぬくもりを重ねることが、長い間私の冬だった。
『冬へ』