店に戻った私を見た友紀は静かに口元に手をやり、なにか小さな声でつぶやいた。
今更多少見た目が変わったところで、意味なんかないと思ってた。だから友紀がヘアカットモデルの話を持ちかけて来た時も、深く考えずに引き受けたのだ。
毛先を揃えるついでに色をリタッチし、シャンプーとブローをしてもらっただけなのに、鏡の中には別人がいた。
「いや、ごめん、すごい……綺麗で」
「そ、そうだね。プロの腕はすごいね、やっぱ」
なんと返して良いやらわからず、違う角度で同意を示す私に、友紀が目を逸らし珈琲カップを傾ける。ほとんど中身の残ってないそれを。
2時間ほど前に出されたお揃いのカップはもうなかった。すっかり氷の溶けた水のグラスを私は所在なくなぞる。
ねえ。私たち、同じ迷路に迷ってると信じてもいいのかな?
まっすぐになった自分の髪からシャンプーが強く香る。
『心の迷路』
ドアが閉まり、私は笑顔を引っ込めた。鍵を掛ける自分の手が、古い映画でも観てるみたいに動く。
テーブルに並んで置かれた青は鳥だとばかり思っていた。よく見ると小ぶりな花が絡み合い、花束みたいに寄り添っていた。まったく、馬鹿みたいに可愛い。
こんなもの滅多に使わない癖に、張り切って出してきちゃって。ほんと可愛くて馬鹿みたい。
『ティーカップ』
カラオケを出たら辺りは暗くなっていた。
「5時かあ」
スマホを見て仁美がつぶやく。途端に防災無線の音楽が流れた。夕焼け小焼けだった。
「こんな都会でも、地元と同じ曲流すんだねえ」
仁美が目を細める。ビルとビルの間でピンクに染まった空。なぜだろう、一緒にいるのに寂しくて。
「あー?」
仁美がこちらを向いて不意に明るい声を出す。
「カレーの匂いがして期待したのに、うちじゃなかった、みたいな顔してる」
人を指ささないで、と払い先に立って歩いた。仁美だって寂しいと思う。じゃなきゃこんな時間に私とここに来なかったよね。
「ね、次どこ行く?」
追いついた仁美を振り返ると、自然な気軽さを装ってその手を取り、私は意識して思い切り口角を上げた。
『寂しくて』
ふたりで過ごす時間に手を振ったあと、チャンネルを切り替えるように、きみはすぐ違う世界を歩いてる。
どんなに楽しく過ごしても、ぼくの言葉で笑ってくれても。改札の向こうでスマホに目をやる顔はもう、ぼくの知らない笑い方。
『心の境界線』
今日までのすべてはきっと、ここにたどり着くための羽根みたいなものなんだよ。
偉そうに演説してるな、と自分でも思った。自分もここに来たばかりの頃は、いや、もしかしたら今でも、大したことは分かって無いかも知れない。だけど仮でもいいから今の悩みに名前をつけられれば、自分の手で扱えていつか解決できるんだと信じられる気がする。
無力感に泣くしかなかった夜も、眠れずに迎えてしまった朝も全部、無駄じゃない。
こうならいいのにって思ってしまうってことは、理想や目的地がちゃんと見えてるってことだから。いまはぐるぐるしていても、そのうちそこに舞い降りていける。そう信じるしか無いんだよね。
この世には知らないことがまだまだある。むしろ知らないからこそ、何にでもなれるから。
『透明な羽根』