文字を打つ君を眺めるのがなんか好きだった。
ㅤ打ち込んでは手を止め、首を傾げて吟味して、君はおもむろにタタタとデリートボタンを連打した。
「なんか違うかもって。打ってみるまでわかんないの」
ㅤ書いてる時間よりも、手を止めたり消したりしてた時間の方が長かったかもしれない。小さな画面を彷徨う指は、どこか知らない国の楽器を奏でているようで。
ㅤ送ったきりのメッセージが、眩しく光って視界から溢れてく。滲んで読めなくなる文字を、睨むように目を凝らした。指先の奏でる返信を聞き取ろうとするみたいに。
『既読がつかないメッセージ』
台風が幾つか通り過ぎて、夕立の後にもアスファルトの匂いが立たなくなった。朝夕に涼しい風を感じるようになった。なのにどうしてこの部屋は、こんなにも暑い!?
「ねえ、外の気温知ってる? 二十三度だよ?」
リモコンを印籠のようにかざしてみたけど、お兄は片方の眉をぴくりと動かしただけ。
「……だから?」
あたしをチラリと見上げて、眼鏡の奥の瞳はまた液晶画面に吸い寄せられる。
「この部屋の温度設定見えてる? 二十七度! 外より暑いの!」
「そう。なら、外で寝れば?」
「やだよ、虫来るじゃん!」
ㅤそういう問題かよ、とお兄が呟く。
「電気代もかかるしさ、こんなに涼しいしさ、今日だけひとまずクーラー切ろ?」
「やだね。まだ暑い」
意に反して切れるお兄ほど面倒なものはなく、ひとまずあたしは引き下がった。毎年の攻防は始まったばかり。地道な譲歩の積み重ねののち、思い切った攻め込みが勝負を分けるのだ。要は納得させた者勝ちってことだけど。
しかし、クーラーで喉をやられかけたあたしには、あまり時間がない。
今年の兄を、例年にない速さで秋色に染め上げなくては!
『秋色』
切子グラスの中で氷がカラリと音を立てた。昨夜のうちに食器棚の奥から出しておいたグラスだった。斜めのカットが入ったそれで飲むカルピスは、普段より濃かったのだろう。鼻の奥に残る後味が長いあいだ消えなかった。
一九九九年、七の月。恐怖の大王が地上に降りてくると言われた日。青空をぼんやり見つめる君の瞳を僕は見ていた。 空調の低く唸る部屋で、形の良い指先に傾けられたグラスがやわらかな頬へ光を跳ね返すのを見ていた。
もしも世界が終わるなら、今がいいと願いながら。
『もしも世界が終わるなら』
歩き出すたびに、視界の隅で鮮やかなオレンジ色がぴょこぴょこ跳ねた。君と出会った季節にお揃いに変えた色。
交差点の端で僕はしゃがみ込む。紐に手をかけた時、君の声が届く。
──カラオケでいつも同じ曲歌う先輩がいるんだけどさ、『ほどけた靴紐』が『おどけた靴紐』に聞こえて、毎回笑っちゃうんだよね。
振り向いても誰も居ないことを、僕は知っている。君とはぐれて、どんなに硬く結び直しても紐はなぜかすぐに解けて。そのたびに僕は、どうでもいいことばかり思い出すんだ。
左足の靴紐が解けて、始まった恋だったのにな。
『靴紐』
「だからね、それが条件だなんて話、こちらはしてないんですよ?」
新しい担当だと名乗った男は、うっすら笑みさえ浮かべて繰り返した。
通りに出たところで、小早川課長代理にポンポンと肩を叩かれる。
「腐んなよ? 井口」
ㅤ契約書を入れたクリアファイルをまだ握り締めたままだった。
前任者の提案を吟味して、譲歩と説得を繰り返して、何時間もかけて作った書類だ。昨日もギリギリまで修正を重ねた。今や何の意味も持たない、ただの紙切れになっちまったけど。
「俺も悔しい」
聞こえた呟きに視線を上げる。小早川さんは宙を鋭く睨みつけていた。
「とりあえず、腹ごしらえだな」
すぐにいつもの顔に戻った小早川さんが、そばの店を指す。ちょうど看板を出し終えた洋食屋の店員が「もうご案内出来ますよ。どうぞー?」と朗らかに応じた。途端にデミグラスソースのいい匂いが感じられ、我ながらなんて現金なんだと呆れる。
「……ですね」
頷いた長身の後に続いて店のドアをくぐる。
ㅤ正解なんてまだ見えない。だけどこの人となら、なんとかなると思った。
『答えは、まだ』