「じゃあ、またいつか」
そう言って君は右手を高くあげた。
「また明日(もしくは月曜日)」
なんて言い合ってきた道の角で。
へえ。そんな風に簡単に手を振れちゃうんだ。いや、分かってたけどさ。
振り返す代わりに、私の手はリュックの紐をぎゅっと握った。憎たらしい背中に、えいやと体当たりする。不意打ちを食らった君が、大袈裟によろめいて見せた。
口から心臓が飛び出しそうで、私は唇を強く結んだ。
さっきの「いつか」を「明日」に変えてやるんだから。「またいつか」なんて言わせないから。絶対に。
息を大きく吸い込んで、私は「あのさ」と切り出した。はずだった。
『またいつか』
めぼしい衣類を詰め終えて立ち上がったら、脇に重ねられた本が雪崩た。僕はまたため息をつく。
「ゆっくん、また!ㅤ幸せ逃げるよ?」
とたしなめる笑い声が聞こえる気がした。
崩れた本たちを、適当に積み直す。『ハイデガー入門』に『空の名前』、そのそばには『スプートニクの恋人』。『地球の歩き方』やファッション雑誌もあった。なにかの基準で積んだのかもしれないが、多彩すぎて分からない。
雑誌には見覚えがあった。しわくちゃになった表紙を指先で伸ばす。初詣の帰り道、立ち寄った本屋で君が買った『今年の星占い特集』だ。
思わずページを繰ってみる。うお座の健康運を斜め読みしたけど、期待した未来は書かれていなかった。食べ物に気を使えとか睡眠を大切にしろとか、んなもん全部あいつは守ってんだ。
めげずに自分の星座を見た。紙面は、労いの言葉で溢れていた。これまでの努力がとてもいい形で報われます、と。必ずしも現状を知って書かれた言葉ではないはずなのに、鼻の奥がつんとした。
もしかして、良い運気をもたらす星を僕は追いかけていられたのだろうか。
派手な表紙のその雑誌を、着替えの詰まった紙袋に僕はそっと滑り込ませた。不思議なほどすっと心に入ってきた運気を、なんとしても君と分け合うと決めて。
『星を追いかけて』
喉の乾きを覚えて目を開けた。
カーテンに区切られた空の端で
雲がすごい速さで流されて行く。
グラスを手に蛇口をひねる。
こうして飲んでしまうから
いつまで経っても涙が枯れない。
溢れた水が生温く指を濡らす。
今を生きるなんて、出来そうもない。
『今を生きる』
眠れずに朝を迎えるなんて何年ぶりだろう。
窓を開けたら意外と風があって、部屋のカーテンをゆらりと動かした。
寄せて返すようにひるがえるそれを、あの時も眺めていた。
なんかキモイ。
そんな言葉で延々なじられた放課後。
理由なんて多分どうでもよかった。
目の端で教室のカーテンが、波のようになびいて。
美しいなと感じた瞬間、聞いてんのかと殴られた。
いっそ、たなびく青いカーテンの海に潜り込めたら良かった。
波のような穏やかさに沈めば、静かに消えていけたかもしれない。
現実の僕は消えずに、ただ今が通り過ぎるのを待った。
震える手を握りしめて。
子供みたいで融通がきかないのを、青いなんて言うけれど。
もっともっと容赦なく僕は青いままでいたかった。
自分の鈍感さに気づかないほど、青く深く潜りたかった。
『青く深く』『カーテン』
ㅤ夏の味、夏薫る、夏仕込み。
ㅤ呟いた僕に隣から「なにそれ」と笑いが返る。
「夏の気配を感じるなあって」
スーパー入口の野菜コーナーにまで積まれたビールを、僕は指した。
「なんかさ、昔よりかなり夏推しじゃない?ㅤ前は秋の方がこんな感じじゃなかった?」
「あんま飲まないからわかんないなあ」
ㅤ特売のブロッコリーを見比べながら、君。
「お、これなんか新しいよ。ナツノオモイデ」
ㅤ海と山ととうもろこし。花火。割り箸の刺さったなすび。風鈴に流しそうめん。様々なイラストが、側面いっぱいに描かれている。
「夏、まだ始まったばっかなのに」
ㅤこんな思い出をたくさん、この夏の君と共有出来ますように。
「じゃ、行っときますか、まだ見ぬ世界へ!」
ㅤヘラヘラ笑って、僕は夏を手に取った。
『まだ見ぬ世界へ!』『夏の気配』