未知亜

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6/11/2025, 8:10:29 AM

ㅤ寝返りの気配に目を開けた。こちらを向いたきみは、目を閉じたまま身体を震わせる。

ㅤずれた毛布を整えて、鼻先に頬を寄せた。まだ少し濡れる睫毛。

ㅤさっき無意識に呼んだ名前を、密やかに呟いた。幸せな響きに唇が緩む。

ㅤうっすら届く月明かりもやわらかな寝息も、白い肌で上下する淡く散った紅色も。

ㅤ隣にきみがいる。それは美しい夜。


『美しい』

6/10/2025, 9:05:54 AM

ㅤいつの間にか、この世界は豆腐の国だ。
ㅤちょっと冗談を言っただけで、ハラスメントだと非難される。飲みに誘えば昭和だと蔑まれる。昭和のどこが悪いんだ。どいつもこいつも脆く淡くまとまりやがって。

「お先に失礼しまーす」
 新卒二年目の瀧田が自席から立ち上がり、こちらを見ずに歩き去って行った。タイパだかボイパだか知らんが、毎日判を押したように定時プラス三分で帰ってしまう。おまえはロボットか!
「北原、ちょっといいか?」
ㅤ課長代理に声を掛けたら、露骨に嫌な顔をされた。
「小川さん、こないだのコンプラ研修聞いてなかったんですか?」
「なんだよ。役職じゃなくて今はちゃんと名前で呼んだだろ」
「呼び捨てもダメなんですって。性別年齢問わず『さん』を付けないと。うちの課全体が人事に目を付けられるんですから」
ㅤ北原は、こういうのって若い奴からは言いづらいんでこの際ですけど、と前置きしてまくし立てる。
ㅤちょっといいかはパワハラの常套句だ、瀧田さんが挨拶したのにひとりだけ挨拶を返さなかったのはハラスメントの始まりだ、ワークライフバランス定着のためにも管理職こそ率先して定時前に帰るべきだ。云々かんぬん。
「小川さん?ㅤ聞いてますか?」

ㅤ嗚呼、全く息苦しい。どうしてこの世界は……!



『どうしてこの世界は』

6/9/2025, 9:23:55 AM

ㅤ教師の呼名に、君は力強く返事した。
ㅤ同じ制服を着て同じように壇上を歩くのに、君だけが私の目にこんなにも輝いて見えるのは何故だろうね。

ㅤ以上。本年度卒業生、三百五十六名。

ㅤ全員が自席に戻り、一斉に着席する間際、君が私の方をチラリと振り向き、小さく手を振った。悪戯を共有する仲間の顔で私も微かに振り返す。

ㅤ癖で髪を耳にかけようとして、指先が空を切る。今日までと思って伸ばしていたはずの髪。

ㅤ忘れないよ。君が私を親にしてくれたこと。喧嘩して笑って泣いて、ここまで君と歩いた道は決して消えることはないから。

ㅤその時がいつになるか私には分からないけど、明日から嘘を突き通せる勇気を、どうか神様私に下さいね。



『君と歩いた道』

6/8/2025, 9:10:43 AM


ㅤ久しぶりに会った姪っ子は、公園までの短い距離を右に左に立ち止まりながら進んだ。顔立ちも面影も赤ん坊の時そのままなのに、身体の大きさだけが会うたび巨大化している気がする。
「まま、みてー!ㅤありしゃん!」
「ほんとだ。蟻さんいたねー」
「みーたんも、みてー!」
「ほんとだー。蟻さんだね」
ㅤ応えながら優茉ちゃんの隣に座る。
「すぐそこの公園がこんなに遠いとは思わなかった」
「そうなの。子どもいると、すべての工程が最大限まで引き伸ばされるね。時空が歪んでる」
ㅤ優茉ちゃんは、飛んできた蝶に気を取られている。かと思うとその場に突如立ち止まり、腰を落としてガニ股に「ちー!」と叫んだ。
「やめなさいよ。道の真ん中で」
ㅤ百合子が笑って、優茉ちゃんを道路の端に引き寄せた。
「なに?ㅤいまの」
「なんか、おしっこの真似らしくて。保育園で流行ってるんだって」
ㅤ変なことばっか覚えてきちゃって困っちゃう、と百合子が口を曲げた。
ㅤ優茉ちゃんは両手を広げ、公園を囲む低い石の上を歩き始める。
「世界が広がるねえ、外に出ると」
「確かに。言葉は増えたねえ。親の知らないことが、どんどん増えてくんだろうなあって、洋ちゃんとも話しててさ。なんか寂しい気もするけど」
「恋とか、するんだろうなあ」
「それ、洋ちゃんも言ってた。早くない?」
「いやいや、あっという間だって」
ㅤ試しに、この子が恋に胸を焦がして、夢見る少女のようになるところを私は想像してみた。
「ちー!」
ㅤという元気な声にすぐ中断される。
「ダメだ。このポーズ、優茉ちゃんの結婚式まで忘れらんなそう」
「それこそやめて。時空歪ませないで」
ㅤ笑い崩れる私の背中を優茉ちゃんのそれとまとめて叩き、百合子は私たちを公園の中へ促した。


『夢見る少女のように』

6/7/2025, 9:39:58 AM

ㅤ待ち合わせの駅前に、君は真っ赤な顔で現れた。
「大丈夫?ㅤ汗すごいけど。ちょっと休んでから行く?」
ㅤ読みかけの文庫本に栞を挟み、僕はガード下のカフェを指す。
「ああ。へーき、へーき」
ㅤリュックからスポーツドリンクを出した君は、きっぱり言い切ってペットボトルを煽った。
「汗は止まんないけど、見た目より平気だから。体育祭の練習ばっかで暑さに慣れたんかな」
ㅤ触覚過敏というのかどうか、肌に何も触れない方が落ち着かないらしいと姉から聞いていた。学校では一年中長袖で通しているそうだ。
「どうせこのあと死ぬほど汗かくし」
「それもそうか」
ㅤ予報では今日は三十二度まで上がるらしい。なんなら既に超えているかもしれない。カバンにしまった文庫本の代わりに、僕はICカードを手にする。
「梅雨もまだなのに、もう夏だよね」
「だね」
ㅤ君の案内で、これから秘境と呼ばれる廃線を見に行くのだ。きっと死ぬほど暑くて、たまらなく熱い一日になるだろう。
ㅤ君の背中に続いて、僕は改札を入る。さあ行こう。僕らの夏の始まりへ。


『さあ行こう』

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