ㅤ迎えに来てくれた吉村という男は、目に付いた中華屋に私を誘い、苦手なものはないかと形だけ確認して、醤油ラーメンのチャーハンセットとギョーザを二人分注文した。奥のテレビでは、ドキュメンタリーが流れている。『ストーカー青年の真実』という美談なのか皮肉なのか分からないタイトルだ。
ㅤ愛と憎しみは似ているんです。僕が彼女に感じていたのは、その両方だったのかもしれません。
ㅤ音声を加工され耳障りな機械音と化した人の言葉が、私の心にすっと染み通った。
ㅤなんで分かってくれないの?
ㅤあなただけは私を分かってくれると思ったのに。
ㅤそう信じていた遠い記憶。
ㅤそんなの愛じゃないと言う人も居るだろうけど。愛や憎しみの対義語は、無関心だから。
「もう行くよ?」
ㅤ三度目に急かされて、残りのチャーハンを諦め席を立つ。勘定を済ませた作業着の背中に続いて、店の外へ出た。
「ご馳走様でした、すごく——」
「いやいや。なんか、あんま美味しくなかったね」
ㅤ美味しいの定義も、恋か、愛か、それとも別の何かかの定義も、所詮人それぞれだ。
ㅤ自分でなにか決めるのはやめよう。それだけを私は決めた。いろんなことを諦めないとろくな事にはならないのだから。
『恋か、愛か、それとも』
約束だよ、そう言ってくれたのに。
あの時交わした愛は今も確かに残るのに。
私の知らない人の傍で、私の全然知らない顔で、
そんなにも優しく微笑むあなた。
約束は守りましょうって、学校で習わなかったの?
『約束だよ』
ㅤ下校時間になっても、雨はまだ降り続いていた。
ㅤ水色の傘を差したりっちゃんは、でこぼこしたアスファルトをピョンピョンと跳ねて歩く。私も水たまりを避け、白いスニーカーの底が作る泡を同じ順で踏んで歩く。
ㅤ雨はあまり好きじゃない。私はくせっ毛で、雨降りの朝は湿気を吸った髪がひどく広がった。仕事に出る支度の手を止めた母は、私の頭をギュウギュウ押したり引っ張ったりして、なるたけ手短に髪を縛るのだった。
「雨の日って、あたし好きだな」
ㅤ赤信号の前で、りっちゃんが立ち止まる。
「世界がグレーに沈んでさ、花の色とか綺麗に見えない?」
ㅤりっちゃんの傍で、ピンク色の紫陽花が揺れる。
「そうだね」
ㅤなんとなく話を合わせると、りっちゃんは私の傘の中に身を寄せた。
「恭子のその髪型も好きだし」
ㅤ唇に近づくやわらかな気配。
「傘の中に秘密、隠せるし」
ㅤ胸に触れるりっちゃんの手に手を添えて、私はそっと目を閉じた。
『傘の中の秘密』
ㅤいつか雨上がりの虹を見上げ、笑ってぬかるみを歩く日を僕はずっと信じていた。
ㅤそぼ降る雨から君を護れる、傘みたいになりたかった。風が吹けば一緒に濡れて、止まないねえと空を眺めて。それだけで良かったのに。
ㅤ紙切れからそっと離した朱色を、僕は無造作に拭き取る。軽くなった左の薬ゆび。気になるのはきっと今だけだ。
ㅤ僕の空にもう雨は降らない。
『雨上がり』
ㅤ勝ち負けなんて関係ない、なんて嘘だよね。
ㅤ特別な椅子はいつだって一つしかない。
ㅤいちばんになれなきゃ意味がないんだ。
ㅤくずおれたあなたの向こうを、雲がすごい速さで流されていく。苦しげなあなたの嗚咽が瞬時に風に飛ばされる。
ㅤぽつりと垂れはじめた水滴を拭い、私は手を差し伸べた。
「帰ろう?」
ㅤ赤い目で鼻を垂らしたまま、あなたは私を見あげる。
ㅤそうだね、あなたの言う通り。勝ち負けなんてものは、何をしたって消えてくれない。
ㅤだからこそ私はいま、心から賞賛したくなるのかな。こんなにも純でこんなにも愛らしい人を拒絶して、勝ったつもりでいるらしい、可哀想な見知らぬ負け犬野郎のことを。
『勝ち負けなんて』