未知亜

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5/13/2025, 9:46:33 AM

ㅤこの部屋の、古ぼけたポスターを眺めるのが好きだった。大きな黒い丸の中で、二つ並んだ黒い点の下に三日月のような赤い口が笑う。小さな子供が描いたと思われる絵だった。『母の日ありがとうセール』という文字が掠れている。

「毎度ご迷惑をおかけして申し訳ありません」

ㅤ隣の部屋から、哲子さんの声がする。いつも先に隣でお話をして、それから私のところに来てくれるのだ。早く終わらないかなと、私は椅子の上で足をブラブラさせた。お気に入りの花柄のスカートがふわりと揺れる。

「おかあさん、もうしないって約束したじゃないの。ほら、お店の人にもう一度謝って」

ㅤやがてやってきた哲子さんに言われるがまま、私は頭を下げる。そうすれば一緒に帰れると知っているから。

「ほら、帰りますよ」

ㅤそうだね、私たちのおうちに帰りましょう。
ㅤ私を迎えに来てくれるずっと大切な子。ただ君だけと。




『ただ君だけ』

5/12/2025, 8:15:16 AM

ㅤこの世界は、時にいろんなものに例えられる。旅だとか海だとか。それは誰にでも分かりやすく、明るい光が満ちているはずで。けれど実際は、微妙に違う旅をして、みな違う海を漂っている。

ㅤ同じ地図を手にしても、描く航路が同じでも。同じ言葉を使っても、同じ水に浸かっても。埋まらない歪みがある。

ㅤきみの理解とぼくの理解は、どうしたって交わることはない。単純で絶対の事実にぼくは気づいてしまったから。寂しいけど、厭でたまらないけど、そういうものだから。

ㅤぼくは自分の船に戻るよ。どこへ向かうとも知れない船に。きみと違う未来なら、どこだって同じ闇。

『未来への船』

5/11/2025, 9:54:49 AM


ㅤ最初は、何を書いても単純に楽しかった。美しいと感じたものや心を動かされたものを、真っ白な画面にどんどん写し取っていくような感覚でいた。SNSに上げる度、いろんな人が褒めてくれた。
ㅤけれどだんだん、冷めていく自分をさくらは感じた。いいねをもらうと嬉しいけれど、それがすべてではない気がした。投稿通知が届くたびにいちいち開いて、感想を伝え合うのがめんどうになった。そんな時間があれば、何かを書いていたかった。

ㅤパソコンの執筆画面を開く。真っさらな原稿用紙のいちばん右上の枠で、点いては消える縦の棒を眺める。彼女の心はしんとして、静かなる森へ分けいったような気持ちがする。
ㅤああ、これこそが世界なのだ、と彼女は思う。私はもう何も要らない。これ以外、何も要らないのに。



『静かなる森へ』

5/10/2025, 7:45:56 AM

ㅤ想像できないことは実現できない。まずは夢を描けよ。
ㅤ講義棟を背に歩き出しながら、畳んだ折りたたみ傘のストラップを俺は弄ぶ。そんなこと言われてもなあ。それで直ぐに描ける夢があるなら苦労はない。
ㅤ卒論の相談に行っただけなのに、肝心なことはアドバイスしてもらえず、余計なことだけ言われたきがする。
ㅤ周りが卒論と就活のダブルパンチに追い込まれていくなか、親戚のコネで就職先はあっさりと見つかっていた。やりたいことが見つからないまま、手持ちのリミットは刻々と減っていく。
ㅤこれって問題の先送りとか回避行動とか、結局そういうことなんだろうか。受けたばかりの講義を思い出して怖くなった。
ㅤやりたいことって、どうやって見つけるんだろう。今の俺には夢なんて言葉は重すぎて、遠い国の出来事みたいだった。


『夢を描け』

5/9/2025, 9:10:46 AM

ㅤこのままだとヤバいかもしれない。最初にそう思ったとき、ケーサツでもどこでも駆け込めば良かった。あのときならまだ、『受け子なんて知らなくて。抜けられなくて』とか何とか言って泣けば、情状酌量の余地は充分にあっただろう。

ㅤもう限界だと悲鳴を上げる脚や肺を、心の中で宥める。頼むよ、もう少しだけ頑張ってくれ。
ㅤ正直、もう一歩も歩きたくなかったが、そんなこと言っていられなかった。ザワザワした気配がまた近づいてくる。
ㅤ逃げ込んだビルの階段を、上へ上へと俺はのぼった。隣の建物とスレスレの位置で立っているこのビルなら、追っ手の裏をかけるはずだ。

ㅤ屋上に着いたと同時に、複数の激しい足音が追いかけてきた。確認している暇はない。捕まったら終わりだ。
ㅤ足を止めることなく無我夢中で走りつづけ、建物の淵まで来ると、俺はそのまま思いっきり地面を蹴った。

ㅤマジかよ、あとちょっと……届かない……。


『届かない……』

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