未知亜

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4/18/2025, 8:44:46 AM

ㅤ言いたいことだけ言って本部長が出ていくと、小さな会議室の湿度はぐっと増した気がした。空調機の低い音だけが沈黙を埋めている。
「今更予算不足とか、意味わかんないっすよね」
ㅤ入社二年目の栗田が、空気を変えるように声を張る。
「考えんの遅すぎっつうか」
「ですよねぇ」
ㅤ四年目の桃井が同調するが、声に力がなかった。
「ごめんねみんな。自分の業務もあるのに、今まで——」
ㅤ何か言わなくてはと思ったものの、うまく言葉が続かない。プロジェクトの解散命令にショックを受けているのは私も同じなのだ。
「いや、梨村さんなんも悪くないですから」
ㅤ栗田の言葉にメンバーも「そうですよ」などとひとしきり頷く。「ありがとう」と応じながらも、何か出来ることはなかったのかと後悔だけが浮かび、会話はまた立ち消えになった。
「……悔しいです」
ㅤ苦しげに絞り出された声が、沈黙を割る。その場にいた全員が垣野内を見た。
「悔しいです、とても」
ㅤ彼女は下を向いたまま、もう一度ゆっくり繰り返す。泣くのを堪えているのが、誰の目にも明らかだった。
ㅤプロジェクトのメンバーが定期的に顔を合わせるようになって半年。それは、彼女が初めて自分の気持ちを表出した瞬間だった。その場にいる皆の心に、静かな情熱とも呼ぶべき温度が、じんわりと高まり燃える音を確かに私は聞いた気がする。



『静かな情熱』

4/17/2025, 8:29:04 AM

ㅤ遠くの声が私に言う。
ㅤ——だから言ったじゃない。
ㅤ仕事でミスをして厳しく叱られ、不安に駆られる夜だったり。
ㅤ好きな人に誤解され、眠れないまま迎えた夜明けだったり。
ㅤ——そんなだから駄目なのよ。
ㅤ遠くから聞こえていたはずの微かな声が、すぐ耳許で谺する。耳を貸してはいけないと思えば思うほど、どうしようもなく粒立っていく。
ㅤああ、おかあさん。いったい、いつまで……?


『遠くの声』

4/16/2025, 9:25:49 AM


ㅤ入学後のガイダンスで隣だった奴に誘われて、そのまま飲みに行くことにしたのは、家庭教師のバイトが休みになってこのまま家に帰るのが味気ないと思ったからだった。
ㅤ遅れてやってきた君は、居酒屋の扉を開けたまま、しばらく辺りを見回した。熱気の籠った店内に、春の風が吹き込んだ。誰かが「涼しー」と歌うように呟いた。
ㅤこちらに向かって手を振る君の背後で、桜の花がふわりと踊った。のは、酔いのせいでは決してないと思う。花びらは確かに舞いこんでいたし、そこだけライトでも当たるかのようにキラキラと爆ぜていた。一目惚れってほんとにあるんだと、どこか冷静に僕は考えたあの日。
ㅤ僕は春と、恋に落ちた。



『春恋』

4/15/2025, 9:11:20 AM

 未来のことを描くのはやめよう。何度もそう思った。
 新しい季節が来ると、新しい出会いがあると、今度こそはと考えてしまう。つい人を信じすぎて、空回りしてしまう。予想通りにいったことなど、結局一度だってなかったのだ。
 期待なんかしなければ、裏切られたと嘆くことも、情けなくて砂を噛むこともないはずで。だからほどほどであきらめる。それがいまの私の未来図だった。
 ……そうだった、はずなのに。


『未来図』

4/14/2025, 8:39:20 AM

ㅤ帰宅を促すチャイムが聞こえる。私は窓を開けて、ベランダに出た。いつの間にかこんなにも日が長くなったと知る。
ㅤ桜の花びらがひとひら、ふわりと飛んで目の前を風に転がった。思わず辺りを見回した。それらしい樹なんてこのへんにはないはずなのに。そもそも、桜の季節はとうに終わっているのではなかったか。
ㅤこころは嵐のさなかでも、季節は確実にめぐっていくのだ。あの頃、この時間はもうだいぶ暗かった。世界にはちゃんと、私とは別の時間が流れている。そんな当たり前のことがなぜか急に愛おしくなった。
ㅤ零しても零しても枯れない涙。こんなふうに風に乗ってどこへなりと飛ばせたらいいのに。それを見つけた誰かが周りを見回し、どこから来たのかと首を捻ってくれたなら。私の心も少しだけ救われる気がした。

ㅤ摘んだ花びらを風に返す。
ㅤ表通りではもうすぐつつじが咲くだろう。


『ひとひら』

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