未知亜

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4/2/2025, 11:36:32 AM

ㅤ外に出たら、雨は止んでいた。
ㅤ久々の休日で昼までたっぶり寝たあと、借りた本を返すため、土砂降りのなか図書館まで来たのだ。
ㅤ貸出期限延滞の督促メールが三回届いて、電話が二回あり、先日はとうとう葉書まで受け取ってしまった。私一人にかけられた人件費を思うと胸が痛い、などと考えてしまうのはもしかして職業病だろうか。
ㅤ雨は一日降り続くと予報で言っていた。このために着替えるのは面倒だったけど、今日返さないとまた電話をもらってしまう気がして、頑張って出かけたのだ。豪雨の中をすぐに取って返す気になれず、来たからには少しだけ、なんて思ってるうちに、あっという間に閉館時刻が来ていた。
ㅤ微かに漏れ聞こえていた蛍の光が、ふつりと途切れる。振り向くと、エントランスは真っ暗だった。非常灯の青白い光が、周囲を幻想的に照らしている。夜の図書館では本たちが歩き回ってお喋りに興じるという、昔読んだ絵本を思い出した。
ㅤ空はまだ厚い雲に覆われていた。天気アプリを見ると、雨は二時間ほど前に止んでいたらしい。止むなら止むって言ってよね、と独りごちて、閉じた傘を腕に掛け、あたしは空を睨んだ。
ㅤブラブラと歩き出す。久しぶりに、時間を忘れて本を読んだ気がする。春先の淀んだ空気が雨に洗われたのか、街灯が照らす桜が三割増しくらい綺麗に見えた。
ㅤ灰色の雲のなか、空に向かって視界の左から右上へと小さな光が昇っていく。飛行機だ。こんなところを飛んでたとは知らなかったな。
ㅤまっすぐに空に向かっていく影は不思議なほど大きく感じられたけど、飛行音は聞こえない。意外と高いところを飛んでいるのかもしれない。
ㅤ小さな瞬きが灰色に馴染んで消えていくのを、なにか神聖な気持ちであたしは眺めていた。


『空に向かって』

4/1/2025, 4:35:08 PM

ㅤはじめましてとあなたは言った。私の顔を平然と見て。なんの感情も籠らない眼で。
ㅤはじめましてと私も言った。丁寧に名前を名乗った。聞き返されることが多くてと、フルネームで二回、繰り返した。
「珍しいお名前ですね」
ㅤはじめて会った時の言葉を、あなたはまたそのまま言った。はじめて会ったのと同じ季節、まったく違う立ち位置で。
「佐賀には多いんですよ」
ㅤ私も同じ言葉を繰り返す。
ㅤあなたの顔に、ほんの小さくさざ波が走った。並んで見上げた地元の空があなたの裡に広がるのを、私は確かに感じていた。



『はじめまして』

3/31/2025, 4:11:47 PM

ㅤ私と典子は取り留めもないことをかれこれ一時間くらい話していだ。小中とずっと一緒にいるのに、話しても話しても話題は尽きることがなかった。
「なんかさ、大晦日より今日のほうが、一年終わる~って感じしない?」
ㅤ典子の声が少し間延びしはじめた。そろそろ眠くなっているのかもしれない。
ㅤ言われて思い出した。今日は三月三十一日、年度末ってやつだった。春休みは宿題もないし毎日が日曜日だし、日付の感覚も薄れてしまっていたらしい。
ㅤ自分たちがというよりは、周りの環境の変化が、年を追うごとに大きくなっていく気がする。私たちは、明日から中三だ。
「いよいよ受験生か。実感ないなあ」
ㅤ私がぼやくと、典子もうんざりした声を出す。
「うちはなんか親の方がうるさい感じ。逆に萎える」
「典子は、私立目指すんだっけ?」
「うん、ひとまずは。さっさと内定もらえたら安心だから単願推薦にしろ、って親は言うんだけど。夏の学校見学の時点で、ほぼ確らしいよ」
ㅤ一学期の内心次第なんだよなぁ~、英語がなぁ~、と典子が大きく息を吐きながら言う。
「ゆかりは公立でしょ?ㅤあんま会えなくなっちゃうかねえ」
ㅤ典子が呟く。さして残念そうでもない響きに私は上手く返事が出来ず、変な間が空いてしまった。
「ゆかり?ㅤどした?ㅤ親きちゃった?」
「あ、ごめん……そう、親が!ㅤそろそろ寝ろって!ㅤせっかくの春休みなのに」
ㅤ典子の無意識の助け舟に、私は勢いよく乗っかって誤魔化した。
「そっか。じゃ、またね!ㅤ明日も喋ろ?」
「うん、おやすみ。またね!」

ㅤメッセージアプリを閉じて、私はため息をつく。
ㅤ典子は多分、なんだかんだと内申をクリアして、第一志望の私立に行くだろう。やりたいことが明確なのだから、志望校に入るのがどう考えてもいちばんいい選択なのだ。
ㅤそれはつまり、典子と違う学校になるという現実まで一年を切ったということで。さっきそう自覚したら、猛烈に寂しくなってしまったのだ。
ㅤこれまでは、「またね!」って別れても、なんの約束もしてなくても、すぐにまた学校で会えた。だけど学校が変わったら?ㅤ毎日顔を合わせる子の方が居心地が良かったら?
「……寝よ」
ㅤとりま明日も通話するんだ。卒業してもずっと「またね!」って言い合って、すぐに会う約束を取り付けるんだ。
ㅤ気の早い決意を抱えて充電コードにスマホを差すと、私はベッドに潜り部屋の明かりを落とした。



『またね!』

3/30/2025, 3:23:19 PM


ご卒業おめでとうございます。
あなたがいるからがんばらなくちゃと
思えたこともありました。
卒業したら、人対人、なので。
またいろいろお話できることを
楽しみにしています。

ㅤ高校の卒業式の日にもらった担任からの言葉だ。
ㅤあの日、卒業式が終わり、教室で順に担任から卒業証書を渡された。並んだ写真を撮られたけど、シャッターが押された瞬間、私は反射的に横を向いてしまった。
ㅤ全員に証書を渡し、担任は穏やかな笑顔で短い連絡事項を伝えた後、教卓に目を落としてほんのしばらく沈黙してから、
「それでは皆さん、また会いましょう!」
ㅤと顔を上げた。変わらず笑ってはいたけど充血したみたいに目が真っ赤だった。
「やだ先生泣かないでよ」
ㅤ誰かが言ってすすり泣きが続き、それを遮るように日直が最後の号令を掛けた。

ㅤその後不思議な高揚のなかで、卒業生たちは卒業アルバムにカラフルなペンを走らせた。最後のページは寄せ書きができるようにスペースが取られているのだ。誰が持ってきたか分からない大量のサインペンがいつの間にか置かれており、回ってくるアルバムにみんな片端から名前とメッセージを書きつけていた。私はその都度表紙をひっくり返して持ち主を確認し、せめて『さん』付けの宛名を入れた。
ㅤようやく自分のアルバムが戻ってきた。寄せ書きのページを早速開く。
『元気で頑張ってね』
『また集まれたらいいね』
『B組よ、永遠なれ!』
ㅤさっき書いていた時に見たメッセージが、楽しげに踊っている。そしてその中に、担任の右肩上がりの文字を見つけた。教室に担任の姿は無かった。私は隣の子のアルバムを盗み見た。反対側の子のも見た。みんなに書いたわけじゃ無いらしい。私のアルバムを選んで書いた……?
ㅤ何かが私を突き動かした。アルバムを抱き締めたまま、職員室を目指して駆けた。階段を駆け下りて渡り廊下を走る私を誰も咎めたりはしなかった。
ㅤ職員室手前の廊下の水道で、あなたは濡らしたタオルを目に当てていた。天井を見上げるような姿勢の横顔に私は言った。
「人対人なら、連絡先、交換してください!」
ㅤ疑問形でも依頼でもない、断定の物言いを私は選んだ。あなたが弾かれたようにこちらへ顔を向け、濡れたタオルが床でペチリと不満気な音を立てた。

ㅤ春風とともに、私は今年も思い出を噛み締める。
ㅤ今は一緒に暮らすあなたとの、あれが多分はじまり。



『春風とともに』

3/29/2025, 3:08:16 PM

ㅤお風呂から出て、録画しておいたドラマのつづきを見ようとしたら、玄関チャイムが盛大に鳴らされる。
ㅤピンポンピンポンピンポーン。
「ノリ~?」
ㅤピンポンピンポンピンポン。
「お酒かってきたー!ㅤいっしょにのも~?」
「ちょ、近所迷惑だから!」
ㅤピンポンピンポンピン……ポン。
ㅤおい最後、溜めたのはなによ。
「いーから上がってきな」
ㅤ部屋の玄関に姿を現した茅乃は、既に酔っ払っているのかと疑ったほど変なテンションだったが、すぐに空元気だと知れた。駄目だったか、やっぱり。
ㅤエコバッグからビールやサワーを次々と並べる茅乃に、私は買い置きの季節限定ポテチを惜しげも無く捧げた。笑ってばかりだった茅乃は三十分もしないうちに大人しくなる。
「これでもさ、あいつの前では、我慢したんだよ?ㅤいつか思い出してもらう時に、泣き顔なんて悔しくて。明るく笑ってる私の方がいいなとか、思っ、てっ」
ㅤ語尾がみるみる震えて、途切れた。
ㅤ向かいに座っていた私は、キッチンから水を入れたグラスを手に戻ると、茅乃の隣に座る。項垂れてしまった小さな頭に手をやって、自分の肩にもたれさせた。思い出さないよ。あの男はあんたの事なんか、この先きっと思い出しもしない。
「よく頑張ったね」
ㅤ頭に浮かんだのと違う言葉を掛けてやると、茅乃はようやく「ふえええ」と声を上げて泣き崩れた。ぽたぽたと垂れた雫が、カーペットに仄暗い染みを残しては吸い込まれていった。



『涙』

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