ㅤお風呂から出て、録画しておいたドラマのつづきを見ようとしたら、玄関チャイムが盛大に鳴らされる。
ㅤピンポンピンポンピンポーン。
「ノリ~?」
ㅤピンポンピンポンピンポン。
「お酒かってきたー!ㅤいっしょにのも~?」
「ちょ、近所迷惑だから!」
ㅤピンポンピンポンピン……ポン。
ㅤおい最後、溜めたのはなによ。
「いーから上がってきな」
ㅤ部屋の玄関に姿を現した茅乃は、既に酔っ払っているのかと疑ったほど変なテンションだったが、すぐに空元気だと知れた。駄目だったか、やっぱり。
ㅤエコバッグからビールやサワーを次々と並べる茅乃に、私は買い置きの季節限定ポテチを惜しげも無く捧げた。笑ってばかりだった茅乃は三十分もしないうちに大人しくなる。
「これでもさ、あいつの前では、我慢したんだよ?ㅤいつか思い出してもらう時に、泣き顔なんて悔しくて。明るく笑ってる私の方がいいなとか、思っ、てっ」
ㅤ語尾がみるみる震えて、途切れた。
ㅤ向かいに座っていた私は、キッチンから水を入れたグラスを手に戻ると、茅乃の隣に座る。項垂れてしまった小さな頭に手をやって、自分の肩にもたれさせた。思い出さないよ。あの男はあんたの事なんか、この先きっと思い出しもしない。
「よく頑張ったね」
ㅤ頭に浮かんだのと違う言葉を掛けてやると、茅乃はようやく「ふえええ」と声を上げて泣き崩れた。ぽたぽたと垂れた雫が、カーペットに仄暗い染みを残しては吸い込まれていった。
『涙』
ㅤ自動改札機にカードをかざしたとき、ふと気づいた。そういや今日は信号に一度も引っかからずに駅まで来れてる。私は思わずにやりと笑う。残業なしでスパッと帰るにはどうすべきか、今日と明日の段取りをしっかり考えなくちゃ。
ㅤ電車に乗ったら目の前にひとつだけ空席を見つけた。乗り換え駅の通路で手袋を落としたけど、すぐに拾ってくれた人の笑顔が優しかった。そんなことがもうぜんぶ、週末へと繋がっていく気がする。
ㅤ土曜にはあなたに会える。そう決まっただけなのに。小さな幸せがプロローグのように、集まってくるみたいだ。
『小さな幸せ』
ㅤパンパンに膨らんだ買い物袋を両手に提げて、私たちは店を出た。
「楽しかった~!ㅤ人のお金で買い物~!」
ㅤほのかに残る酔いも手伝って、思わず本音を漏らすと、
「私も!ㅤコンビニで一万円使うのって、結構難しいもんだね」
ㅤ同じく買い出し係になった貴美恵が笑う。
「最後は『行列店の黒酢酢豚』ばっかり籠に入れてなかった?ㅤ五百円くらいするやつ」
ㅤ私はニヤニヤと彼女の顔を覗き込んだ。
「いや、あれめちゃくちゃ美味しいからね!ㅤ今期の売上、過去最高だったんでしょ?ㅤ盛大にお祝いしないと!」
「部長のお金だけどね」
「まあね~」
ㅤ並んで笑う二人の酔っ払いの間を、まだ少し冷たさの残る風が吹き抜けていく。
「しかしこの場所はほんと穴場だね」
ㅤ桜並木の遊歩道に戻り、貴美恵が夜桜を見上げて呟いた。花見会場として会社連中が陣取った場所はこの先にある。住宅街の外れの、数本の桜が固まって咲いている、誰が決めたかも忘れられた毎年の定位置。
ㅤ自分たちが入社した頃はほぼ全員強制参加のようなものだった花見の会は、ここ数年、いつものメンバーに固定されている。令和の今の時代に、会社の人たちと外で酒を飲むなんて流行らないんだろう。
ㅤ貴美恵がなぜこの会に参加し続けているのかは知らない。部署を異動したあともなんとなく声がかかるので来ているのだと聞いた。私が参加しているのは、貴美恵が来るからに他ならない。連絡係も買って出ている。
ㅤ空を見上げた白い横顔が、薄闇の中で不思議に明るく見える。さあっと風が吹き、さらわれたピンクの花びらがゆるく渦を巻いてアスファルトに零れていった。春が来るたび、毎回新鮮に綺麗だと思うのはなぜだろう。この季節に輝き咲き乱れるのは、花に限ったことではないのかもなんて、馬鹿なことを思ってしまう。
「あー、やっと帰ってきたー」
「何買って来たのー?」
ㅤ賑やかな『いつメン』の声がする。買い物袋を翳した私たちは、桜の舞う宴の輪の中にあっという間に取り込まれていった。
ㅤ
『春爛漫』
ㅤ近道しようとして行きとは違う陸橋を通ったら、ギリギリのところで登りきれなかった。残量ゼロパーセントを示す電動自転車の液晶画面を睨む。なんで夜のうちに充電しておかなかったんだろう。このところの私は注意力散漫だ。
ㅤ重くなった車体をなんとか押し上げ、急勾配を登りきる。てっぺんについて息をつくと、腕とふくらはぎが微かに痙攣するのを感じた。
ㅤ影絵みたいな鳥が視界の端を飛んでいく。陽を受けた雲がキラキラと七色に輝いて見える。
——彩雲だね。
ㅤあなたの声がふと重なった。
——空気が澄んでるとき見えるんだって。
ㅤ翳りはじめた世界の中で、見上げたそこだけが目映い。
——いい事あるよ、多分。
ㅤ明日筋肉痛すごいだろうなと思いながら、ペダルに足をかける。登ってきたのと同じ傾斜のある下り坂へ、私は勢いよく漕ぎ出した。
『七色』
ㅤ柔らかな陽の差す公園で、私はあんたを嫌いだと言った。高校の卒業式の日だった。
ㅤ学校の後、よくここで過ごしていた。他愛ないことばかり、いつまでも喋っていた。この時間に終わりが来るなんて考えてもいなくて。明日も明後日も同じような日が続き、ずっとこうして隣にいるのだと信じて疑わなかった頃。
ㅤあんたなんか大嫌いと言いながら、胸が張り裂けそうになった。知られてしまうことが怖かった。だからいっそ忘れたかった。二人で過ごした時間も記憶も、そう言って消してしまいたかった。
ㅤ私を見つめる唇が歪む。目尻の下がった小さな瞳にみるみる滴が溜まるのが、ただ綺麗で言葉を無くした。
ㅤあの日の続きのような柔らかな三月の陽差しの向こうに、信じられないほど美しいあんたが立っている。
「私も、あんたのこと嫌いだったよ」
ㅤ近づいてふわりと崩れた笑顔に、私は抱きしめられる。
「私は、あんたみたいになりたかったから」
ㅤ懐かしい匂いと温もり。
「たぶん、同じでしょう?」
ㅤ私の頬を拭って、大嫌いで大好きな顔が言う。
「高校時代の記憶は、あんたのことばかりだもん」
ㅤそうだね、私はずっと、一緒に過ごしたあの日の記憶に焦がれてた。
『記憶』