未知亜

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3/21/2025, 9:06:42 AM

ㅤどこかから、洗濯機の回るぐわんぐわんという音がする。
ㅤまだ見慣れない天井に、もやのかかった光がプールから見た水面のようにゆらゆらと揺れている。
ㅤ微かに子どもの明るい話し声が聞こえるから、近所に小学校でもあるのかもしれない。
ㅤ隣には、すうすうと寝息を立てる幼い顔。小さなその指をキュッと握りしめる。
ㅤ今日と明日、何をして過ごそうか。しばらくはそれだけを考えようと決めた。仕事も住居も少し先でいい。ワーカーさんもそう言ってくれたのだから。
ㅤ目を覚ましたら、ゆうべもらったおにぎりを食べて、このあたりを歩いてみよう。
ㅤ今日からは二人。いまは誇らしい気持ち。この愛しい手を繋いでいられるなら、私はなんだってできる気がする。

『手を繋いで』

3/19/2025, 1:00:46 PM


ㅤ三月には珍しく雪の降った朝。小さな水の粒が、歩くうちにどんどん大きなぼたん雪に変わった。白に覆われた視界のなか並んで橋に差し掛かると、川には白い霧が立ち上っていた。寒さとは裏腹に、靄はまるで湯気のように見える。
「なんか温泉みたい!」
ㅤ橋の真ん中で立ち止まった私に、
「飛び込んでみたら?」
ㅤとあなたは笑った。
「これって、冬の始まる頃にに多くなかった?」
「だね」
ㅤ傘に積もった雪を落としてあなたが頷く。
ㅤ川の水と空気。熱さと冷たさ。その温度差が開けば、冬の終わりにも始まりのような現象が起こる。
ㅤもしかしたら、と私は隣をチラリと見る。いつもクールなあなたの、熱くなったところを見たことがない。熱さと冷たさが極端になれば、人からも湯気が出るのかな。
ㅤ大気に溶けるはずの湯気が、消える先はどこ?




『どこ?』

3/18/2025, 3:02:18 PM

ㅤ坂道で二人を見かけたのはまったくの偶然だった。その日はバイトに遅れそうで、近道をしたくなったのだ。ふだんはそんなところ通りもしないのに。
ㅤ先輩の後ろ姿は遠目からでもよくわかる。少しだけ右肩の下がった癖のある歩き方。自分だけが気づいてるんじゃないかなんて、あたしは少し自惚れてた。道の反対側に向かって、その時先輩が手を振るまで。
ㅤ夕暮れに寄り添った影が、深く容赦なくこの身を刺した。あたしは勢いよく回れ右をする。先輩に。自分の気持ちに。
——大好きだった。
ㅤムクムクと湧き上がる叫びを、歯を食いしばってあたしは潰す。
——本当は……すごく大好き。
ㅤあたしの心が、どうしてと泣く。


『大好き』

3/17/2025, 3:30:07 PM


ㅤ思えば必ずしも、あなたである必要はなかったのだ。
ㅤあの日声をかけてくれたのがあなただったから。最早あなたなしでは立てぬ私になってしまった。叶わぬ夢になってしまった。

ㅤ勝手がわからず困ったあなたは「尋ね易そうだから」という理由で私を選んだといった。
ㅤそんな風情を出していたらしい自分を、私は初めて誇らしく思った。私は困り果てたあなたの役に立つため、あなたに選ばれたのだから。それで恋を自覚したのだから。
ㅤけれど困っていたのはその時だけで。恐らく選んだ時と同じくらい気軽に、あなたは去ってしまった。その後の私が斃れて動けないなんて、思いもしないで。
ㅤあなたでなくても良かった。そんな未来が確かにあったはずなのに。叶わぬと知ってしまった夢に、今の私はただ沈むだけ。


『叶わぬ夢』

3/16/2025, 3:02:42 PM


「ねぇ、どこまで行くの?」
ㅤ半ば小走りになりながら、私は問いかけた。彼女がこんなに早足だなんて、初めて知った気がする。
「いいからいいから」
ㅤ彼女は振り返ることなく、笑ってぐんぐん歩いていく。住宅街の細い路地を抜け、右に左に何度も曲がる。ここって私有地じゃないの?ㅤ大丈夫なのかな?
ㅤ街灯がまばらになって流石に少し不気味に思えて来た頃、ふと周りが明るくなった。目の前に開けた景色に私は歓声を上げる。
ㅤ花の甘い香りに包まれる。微かに水の流れる音がする。小さな川のせせらぎを覆うように、見事な桜が枝を張り出し咲き誇っていた。
「きれい……」
ㅤ私と彼女のあいだで、はらりと一枚花びらが舞う。
「でしょ?」
ㅤ彼女は自分の手柄のように胸を反らした。
「今日、悪かったね。付き合わせて」
ㅤ桜を見上げたまま、彼女がぽつりと言った。
「あんなメンツだって知ってたら誘わなかった。ごめん」
ㅤ私も桜を見ながら返事をした。
「ううん、逆に良かった」
ㅤそう言うと彼女が不思議そうな顔をする。
「だって、こんないい場所教えて貰えたからさ」
ㅤむしろラッキーかも、と笑うと、ポジティブだねえ、と彼女は私の髪に手を伸ばして桜の花びらを摘んだ。
ㅤこの景色を私は何度も思い出すことになる。彼女の指先と笑顔を、花の香りと共に。


『花の香りと共に』

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