ㅤ坂道で二人を見かけたのはまったくの偶然だった。その日はバイトに遅れそうで、近道をしたくなったのだ。ふだんはそんなところ通りもしないのに。
ㅤ先輩の後ろ姿は遠目からでもよくわかる。少しだけ右肩の下がった癖のある歩き方。自分だけが気づいてるんじゃないかなんて、あたしは少し自惚れてた。道の反対側に向かって、その時先輩が手を振るまで。
ㅤ夕暮れに寄り添った影が、深く容赦なくこの身を刺した。あたしは勢いよく回れ右をする。先輩に。自分の気持ちに。
——大好きだった。
ㅤムクムクと湧き上がる叫びを、歯を食いしばってあたしは潰す。
——本当は……すごく大好き。
ㅤあたしの心が、どうしてと泣く。
『大好き』
ㅤ思えば必ずしも、あなたである必要はなかったのだ。
ㅤあの日声をかけてくれたのがあなただったから。最早あなたなしでは立てぬ私になってしまった。叶わぬ夢になってしまった。
ㅤ勝手がわからず困ったあなたは「尋ね易そうだから」という理由で私を選んだといった。
ㅤそんな風情を出していたらしい自分を、私は初めて誇らしく思った。私は困り果てたあなたの役に立つため、あなたに選ばれたのだから。それで恋を自覚したのだから。
ㅤけれど困っていたのはその時だけで。恐らく選んだ時と同じくらい気軽に、あなたは去ってしまった。その後の私が斃れて動けないなんて、思いもしないで。
ㅤあなたでなくても良かった。そんな未来が確かにあったはずなのに。叶わぬと知ってしまった夢に、今の私はただ沈むだけ。
『叶わぬ夢』
「ねぇ、どこまで行くの?」
ㅤ半ば小走りになりながら、私は問いかけた。彼女がこんなに早足だなんて、初めて知った気がする。
「いいからいいから」
ㅤ彼女は振り返ることなく、笑ってぐんぐん歩いていく。住宅街の細い路地を抜け、右に左に何度も曲がる。ここって私有地じゃないの?ㅤ大丈夫なのかな?
ㅤ街灯がまばらになって流石に少し不気味に思えて来た頃、ふと周りが明るくなった。目の前に開けた景色に私は歓声を上げる。
ㅤ花の甘い香りに包まれる。微かに水の流れる音がする。小さな川のせせらぎを覆うように、見事な桜が枝を張り出し咲き誇っていた。
「きれい……」
ㅤ私と彼女のあいだで、はらりと一枚花びらが舞う。
「でしょ?」
ㅤ彼女は自分の手柄のように胸を反らした。
「今日、悪かったね。付き合わせて」
ㅤ桜を見上げたまま、彼女がぽつりと言った。
「あんなメンツだって知ってたら誘わなかった。ごめん」
ㅤ私も桜を見ながら返事をした。
「ううん、逆に良かった」
ㅤそう言うと彼女が不思議そうな顔をする。
「だって、こんないい場所教えて貰えたからさ」
ㅤむしろラッキーかも、と笑うと、ポジティブだねえ、と彼女は私の髪に手を伸ばして桜の花びらを摘んだ。
ㅤこの景色を私は何度も思い出すことになる。彼女の指先と笑顔を、花の香りと共に。
『花の香りと共に』
ㅤそっちじゃないと心が騒ぐ。だけど私は進むのをやめられない。どうしていいか分からない。なぜこんなところに来てしまったのだろう。
ㅤはじめてついた嘘を覚えてる。磨いてない歯を磨いたと言った。母は追求したりはしなかった。ドキドキしながら布団に入った。その後も嘘は重なっていった。テストはまだ返ってきてないとか、あの子が悪口言ってたよとか。ひとつひとつは他愛ないこと。なのにそのたび、小さな心のざわめきをみていた。
ㅤつきとおしていれば、そのうち自分でもわからなくなって、本当だった気がしてくるのではないか。そんなことを思った。けれど、いつの間にか記憶の中でそこだけ色が違っていた。まるで警告を示すように、朱を帯びたまま積み重なっていく。いつまでも嘘は嘘のまま。
ㅤもう抜けられない……。
ㅤゆうべ誰かが呟いた言葉が頭の中にこだまする。身体がぶるりと震える。ぎゅっと目をつむり指で目尻を強く揉むと、まぶたの闇に朱色が混じった。
ㅤ目を開けて息を吸い込み、震える手で呼び鈴を押した。
『心のざわめき』
髪ゴム、イヤホン、パスケース。
なぜかみんな出かける直前に姿を消すの。
片足だけ靴をつっかけて
ポケットから小銭が散らばり
玄関先の時間がこぼれる。
駆けてくる君を迎えうつ私に
いつかなりたいと焦がれながら、
雨の日晴れの日曇りの日。
遅れた雑踏に君を探して。
『君を探して』