ㅤ吹く風の冷たさに閉じた目を、恐る恐る開いた。脚元の枝をしっかり掴んで背を伸ばすと、少し高い位置にある隣の樹を見上げる。
「がんばれー」
「おちついて!」
「だいじょうぶ、できるよー」
「下は見るなー!ㅤ前だけ見ろー!」
ㅤきょうだいたちは、みな離れた枝まで飛んでしまった。さえずる声がはるかに遠い。
ㅤ無言で頷くママに背中をトントンと叩かれ、広げた両腕をやみくもに動かした。さえずりが甲高くなる。ぼくの脚が思い切り枝を蹴る。
ㅤバランスを崩した身体がぐらりと傾いた。あっ!、と思った時には、きょうだいたちの叫びが……みるみる……遠く。
『……遠く』
ㅤ閉じた睫毛のうつくしさ。
ㅤはにかんだ頬のうちがわ。
ㅤ肌に零れる涙のプリズム。
ㅤ艶やかさを孕むメロディ。
ㅤ彩られる世界はまるで、
ㅤ花びらのやわらかさ。
ㅤわたしだけが、未来永劫——
『誰も知らない秘密』
ㅤ本のページをめくるうちに、空が白み始めていた。少し張った首にわたしは手を当てる。揉みながら左右に倒すと、ぽきりと乾いた音がした。物語の世界を旅するうちに、わたしはひとつ歳を取っている。
ㅤ昨夜ようやく迎えた本は、想像以上の秀逸さだった。これまで読んできたこの作者の史上最高を更新している。この世のすべてに感謝したい。
ㅤストーブを消して、窓を細く開ける。ひんやりした空気が頬を刺す。そんなことすら心地好かった。眠るのが勿体ない。初見の余韻は今だけなのだ。
ㅤ静かで美しいこの夜明けを、わたしは大きく呼吸した。
『静かな夜明け』
※個人的なことで恐縮ですが本日誕生日でした。
ㅤ数多の物語を読むことの出来る倖せな世界で
ㅤまた一年。
ㅤ紀子の息子の話を聞くのが、私は嫌いではない。
『ヤスくんがね、なんも話してくんないの』
「中二だっけ?ㅤ思春期でしょ」
ㅤ缶ビールを傾けて、私はスピーカー設定にしたスマホに話しかける。
ㅤこういうとき、私の頭の中にあるのは思春期時代の弟だ。あいつの発する単語の八割は、『普通』と『別に』と『腹減った』だった。男の子っていつの時代も変わらない。
『今夜は友だちのとこ泊まるんだって。そんな友だちがいたことも知らなかった』
「連絡はちゃんとしてたんだ……」
ㅤ紀子ではない相手に向けた私の言葉は、
『連絡無かったらこんなのんびり電話なんかしてないよお』
ㅤという声に遮られた。
『ついこないだまで、あの子の考えてること何でも分かってたのに』
「ついこないだって、あんたねえ」
『まさにheart to heart、みたいな』
「以心伝心ってやつね。何年前の話よ」
『え……今見てんの、五歳の時の写真』
「八年前だから、それ」
『ママ、だいすき!ㅤだってさ。この子どこに行っちゃったのかなあ』
「久しぶりの一人の夜なんだからさ、もっと前向きなこと楽しみなさいよ」
『……こういうところがいけないんだよね。あーあ。やっぱ気ぃ遣わせちゃってんのかなあ』
ㅤ大丈夫。あんたが思う以上に、あの子はあんたが好きだからね。今もheart to heartな息子くん、責任持ってこっそり一晩お預りしますよ。
ㅤ私の心の呟きが聞こえたかのように保則がゲーム画面から顔を上げ、ポテチを一枚つまみ上げて屈託なく笑った。
ㅤ
『heart to heart』
ㅤブーケは、プロポーズのために男性がプレゼントするものだったとか。マーガレットの花びらの数は大抵奇数だから、占いというよりは『好き』って気持ちを噛み締めるために使われたのかもとか。
ㅤ私の知らないロマンチックな知識を、あなたはたくさん持っている。
ㅤ昔あなたが教えてくれた、百八本の薔薇の花言葉。もう二十年も前のこと。
ㅤ次女も家を出て、少し広くなったリビングで。
「また二人に戻っちゃったね」
ㅤと笑うあなたのそばに、ドライフラワーにして深みを増した永遠の薔薇の色。
『永遠の花束』