書く習慣:本日のお題「桜散る」
地球温暖化の影響なのか、私の住む地方ではすでに桜が散っている。
私が小学校や中学校に通っていた頃は、ちょうど新学期が始まる4月の1週目あたりに桜が満開だった気がする。しかし、今年は桜の見頃が春休み期間に被っており、「自分が小学生だったらちょっと残念だったかもしれないな」と思った。
社会人になり、人の入れ替わりの少ない職場で働いていると、季節の趣を感じられるのはコンビニのフェアの恵方巻きやクリスマスケーキくらいである。酷暑や極寒なら毎年感じているが、あれには趣がない。近年では暑すぎて災害扱いされており、気候の時代が変わったのを感じる。
そんななかで、桜は自分の目で感じられる数少ない季節の楽しみだ。私にもっと草花の知識があれば道端の野花を見て季節を感じられるのだろうが、物知らずなので楽しみのセンサーが低感度なのだ。
自分の草花の知識は、子どもの頃に見た図鑑や通学路に生えていたあれこれ、高校時代に読んだ有川浩の『植物図鑑』くらいである。しかも『植物図鑑』はほぼグルメものとして楽しんでおり、植物=食べ物と思っていた節がある。もしも小学生の頃に小説の『植物図鑑』を読んでいたら、道端の草をむしってきて「今日の夕ご飯これ作ってー!」と親にリクエストする厄介キッズになっていたことだろう。
先日、Instagramで「小学生のあるある」を見ていたら、「花の蜜を吸っていた」という妖精みたいなエピソードが出てきた。法律的にも健康面でも本当に危ないので絶対にやるべきではないが、ツツジだのサルビアだのアセビだの、おそらく観賞用に植えられた花の蜜を吸うのはクソガキとして親近感があった。だが、優雅に蜜を吸って育った都会の妖精キッズとは違い、私は荒ぶる野育ちの人間である。
食べ盛りの子どもだったので、お昼に給食を食べて午後の授業を受け、帰りの会が終わって「先生さようなら、みなさんさようなら」をやる頃には若干小腹が空いていた。
下校時刻はおやつの時間の少し前、たいていの児童は帰宅しておやつにちょうどいい時間になる。しかし私の家は学区の端っこにあって非常に遠かったため、家に帰ると「今からおやつ食べたらお夕食が食べられないでしょ」と言われる頃合いだった。
そんな腹ぺこ野生児は、学校の遠足で悪友から「グミの木」を教えてもらっていた。ある時ふと「ここにもグミの木が生えているのでは?」と思い出し、通学路の野原で探し当て、毎日の下校のおやつとしてつまんでいた。
赤い楕円の実を指先でそっとつまんで熟しているか確かめて、皮ごと口に入れていた。お菓子とは違う甘酸っぱさ、グミというだけあって弾力のある食感、目の前にいくらでも実っている自分だけの自然のビュッフェ。この頃の自分は「帰りにグミの実を食べるために学校へ行っている」といっても過言ではなかった。
しかし、『ヘンゼルとグレーテル』のお菓子の家とは違い、グミの木は植物である。季節が終われば食べられなくなってしまい、アホな小学生はその季節が終わるとすっかりグミのことを忘れ、また長くつらい通学路を行き来していた。
ある蒸し暑い夏の日、ご年配のご婦人に声をかけられた。
「あなた、前に木の実を食べていたでしょう。かわいそうに、よほどお腹が空いているのねえ。庭のビワの実を持っておいきなさい」
童話だったら絶対ついていっちゃいけない山姥キャラだが、私は性善説を信じて疑わないお気楽キッズだったのでほくほく顔でお礼を言ってビワを受け取った。そして家に帰って親に叱られ、以降は夕方でもおやつが出るようになった。
ご婦人をそれとなく探しながら下校していたが、それっきり会えなかった。
書く習慣:本日のお題「夢見る心」
【注意】実写版白雪姫(2025)のネタバレを含みます。
今日のお題を見て最初に浮かんだのは、実写白雪姫の『夢に見る 〜Waiting On A Wish〜』だった。
ネットではかなり評判が悪かったが、想像していたほどめちゃくちゃ悪いとか、退屈すぎて眠くなるなどということはなかった。
私はディズニー映画冒頭で流れる世界観インストール楽曲(実写アラジンの『アラビアン・ナイト』、アナ雪2の『ずっと変わらないもの』など)が大好物である。ミュージカル映画の長所は、映像とメロディと歌詞で効率よく観客を物語の世界に没入させてくれるところだ。
したがって、実写白雪姫冒頭の『愛のある場所』の場面だけで8割くらい満足していた。国王夫妻と白雪姫が城の井戸で「将来どんな人になりたいか」を歌い、城下町で人々にアップルパイを振る舞い、祝祭を楽しむ。こういう「幸せだった頃」の場面が美しければ美しいほど、それが失われる未来を予感させて涙腺が緩む。
両親がいなくなり、継母の女王に虐げられる白雪姫が歌うのが『夢に見る 〜Waiting On A Wish〜』だ。女王に立ち向かえない自分の弱さをさらけ出し、「父に誇れる自分になれるのか」と悩む曲である。
曲の間奏で、白雪姫は捕縛されていた若者を助け、城から逃がす。若者は「君は女王に立ち向かった。勇敢だ」と言って去り、城に残った白雪姫は、そこで初めて表情を変える。
今までずっと自己否定していた部分を、初めて人に肯定されたからだ。
しかし、長い間辛い目に遭ってきた白雪姫は、そこですぐに浮かれて行動を起こしたりはしない。「勇敢だ」と言ってくれた若者は行ってしまい、自分は変わらず女王の城に閉じ込められたまま。わずかに浮上した分だけ、気持ちはすぐに沈む。「いつになったら父が誇れる娘になれるのか」「毎晩夢に見ては、目が覚めたらまたいつもの私」と、言葉をそっと置くように歌う。
停滞していた場所から一歩だけ前に進むと、理想への道のりが遠いことに気がついてしまう。ずっと立ち止まっていれば「動いていないから、目標が遠いのは当たり前だ」と言い訳が立つ。
しかし、少しでもその場から動けば、「これだけ頑張ったのに、目標地点には全然届かない。一体あとどれだけ頑張ればいいのか」と絶望すら覚える。
そういった白雪姫の心の動きを、90秒くらいの演技で伝える俳優が本当にすごかった。
こういう感想を述べる際、思考停止して「すごかった」しか言えないので、今後は「すごい」からの卒業を目標に頑張っていきたい。
困った時のGemini先生ということで、「『すごい』を連発してしまいます。他の言い回しを教えてください」と助けを求めてみた。
"「すごい」と言いそうになったら、一度立ち止まって**「なぜすごいと思ったのか?」**を自分に問いかけてみてください。
「速くてすごい」→「迅速な対応ありがとうございます」
「詳しくてすごい」→「博識でいらっしゃいますね」
このように、理由をそのまま言葉に置き換えるだけで、語彙のバリエーションは自然と増えていきます。"
今回のケースに当てはめると、「俳優の演技がすごい」→「俳優の繊細な表現力に圧倒された」あたりになるだろうか。
Geminiに相談したらすぐ解決してしまったので、目標を変更しよう。すぐGeminiに甘えずに、まずは自力で考える癖をつけたい。
書く習慣:本日のお題「届かぬ想い」
届かぬ想いといえば、昇給である。
相場よりも良い待遇なので自分の現状に不満はないが、世の中的には4月が昇給シーズンだったり、5月にメーデーがあったりするらしい。みんな頑張っててえらい。
ただ、いくら給料が上がっても、上がった分だけ社会保険料だの所得税だの住民税だのを控除されるので、シンプルに喜ぶのは難しい。
しかも、子ども子育て支援金とかいう新しい名目で、今年の春から更に数百円取られるようになる。全員から等しく取っちゃったら、子育て世代も負担することになるのだから、何も取らない方がマシなのでは? と思わないでもない。
そもそも毎月の給与明細に控除項目を追加しないでほしい。給料日のたびに明細書を見て凹むし、この制度を作った人に反感も持つ。せめて年末調整でまとめて控除してほしい。
いや、自分に正直になろう。
何も取らないでほしい。
……というのを示すために毎回ちゃんと投票へ行っているが、総務省のデータを見たら意外と投票率が低くてみんなマジかよと驚いた。最も投票率が高い世代でも、投票率は7割弱である。10人に3人は投票していない。
ちなみに20代の投票率が一番低い。おそらく進学などで住民票を移さないまま遠方に住んでおり、投票のためだけに帰省するのが難しいからなのだろうと踏んでいる。
ただでさえ投票率が高いとは言えないのだから、真冬に選挙をやるのはだめだと思う。「この雪では投票へ行けない」と嘆く人をニュースで見て、温暖な地方住まいの自分は恵まれているんだなと思った。
入院中の不在者投票などの制度などもあるので、できるだけ投票してほしい。今の自分が困っていなくても、投票率が上がればナメた政治をしようという人がちょっとビビるかもしれない。
「どうせ特定の党が勝つから」とか「投票したい人がいない」とかやさぐれたくなる気持ちになっても、今は「どの政党が自分の考えに近いか」を診断するサイトもある。
多額の寄附や熱心なボランティア活動ができなくても、たった1日の数時間出かけて投票すれば、将来の自分や今困っている人のためになる。
ちょっと真面目っぽいことを言ってみたが、私の楽しみは投票用紙のあの独特な手触りと書き心地である。ユポ紙というちょっと可愛い名前をした紙で、名前の由来となった社名「ユポ・コーポレーション」にはこだわりが詰まっている。
"三菱油化株式会社(現:三菱ケミカル株式会社)の「YU」と王子製紙株式会社(現:王子ホールディングス株式会社)の「O」をPaperの頭文字「P」で結びつけるという従業員のアイディアから「YUPO=ユポ」とネーミングされました"
二つの社名の頭文字を並べるのはありがちだが、それを"Paperの頭文字「P」で結びつける"という発想が洒落ている。私も何かの名前を考える機会があったら、キーアイテムの頭文字を間に置いて「結びつける」とかやってみたい。
しかしそれよりもまず、腰を据えてひとつのお題に取り組む思考体力をつけるべきである。
書く習慣:本日のお題「神様へ」
【注意】ゲーム『SIREN: New Translation』のネタバレ及び宗教に関する内容を含みます。
神様へ
いつもお世話になっております。
今日も生きて家に帰れましたこと、感謝いたします。
願わくは、明日も苦痛少なく過ごせますように。
今後ともどうぞよろしくお願いします。
神頼みをすると、願いが叶わなかった時の精神が非常によろしくなくなるため、困った時はなるべく神様に頼らないようにしている。
その代わり、なんてことのない時に、いつもつつがなく暮らせていることに感謝して「今後ともよろしく」と祈っている。
「神様へ」の3文字から連想する神様は何だろう。
神社に祀られている神様か、教会で祈りを捧げる神様か。
それとも、もっとざっくりと「空にいるイメージのある何らかの神様」なのか。
『SIREN:NT』というゲームがある。もう20年近く前に発売された作品だが、YouTubeには昨年にも「ストーリーの一気見動画」などがアップされており、根強い人気がある。
ゲーム内の重要キャラクターとして神様が出てくる。ゲームの設定だから何でもアリではあるのだが、しかしSIREN:NTの舞台・羽生蛇村の神様の扱いには唸らされるものがある。
ここから先はネタバレ注意だ。
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羽生蛇村独自の宗教・眞魚教(まなきょう)は、ストーリーを知らない状態で見ると、「江戸時代の隠れキリシタンの影響を受けているなあ」という感じである。
しかし、ゲームを進めてアーカイブを取得したり、ストーリーを最後まで見たりすると、江戸時代の隠れキリシタンよりもっと前からキリスト教の影響を受けていたことがわかる。
ゲーム内アーカイブのNo.047『羽生蛇村民話集』で、「ある人物が飢饉の際に空から降ってきた神様を食べた」ことが明かされる。
私はキリスト教をふんわりとしか知らないが、聖体拝領っぽい発想だなあと思う。
眞魚教のシンボルである「マナ字架」(生の字を逆さにしたデザイン)は、「生(ナマ)」を逆から読んで「マナ」だ。
私にSIREN:NTを布教した友人の考察によると、眞魚教の「マナ」は「生」の逆(生きない→死)であると同時に、旧約聖書に出てくる食べ物「マナ」ともダブルミーニングになっているのではないかということだ。
7世紀末、飢饉に見舞われた羽生蛇村で神様を食べちゃった人は、おそらくもともとはキリスト教徒だった。彼女の背景を踏まえると、空から降ってきた神様を旧約聖書のマナに見立てる発想はごく自然なものに思われる。
ゲーム内アーカイブのNo.001は『天地救之伝』、眞魚教の聖典だ。その最終巻部分に、このような記載がある。
"優しい神様は彼女に永遠の命を与えました。
私はアルファであり、オメガであり、初めであり、終わりであり、聖なるミートローフである!"
食べた側の主観では「優しい神様が永遠の命を与えた」認識になっている。神に呪われて不死にされてしまったという認識よりはマシになるし、私が彼女でもそのように言い換えると思う。仲間意識を感じる。
「アルファであり、オメガであり、初めであり、終わりであ」るというのは、新約聖書に登場する言葉だ。聖書でその言葉の続きを読むと、「わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる」と書いてあった。というか聖書から神様の台詞を引用してくる10歳、すごいな……。
ところで、最近のX(旧Twitter)では第二次バベルの塔とも言うべき事態が起きた。日本語に翻訳された海外のツイートが、おすすめ欄に流れてくるようになったのだ。
私にとってはタイムリーなことに、フランス語から翻訳されたポストが流れ着いた。
"ねえ、日本人のみんな、神道では神様が何百万もいるって聞いたんだけど、どうやってどの神様に祈ればいいか分かるの? 😅 西洋では一つの神様に祈るのに慣れてるから、こんな質問になっちゃうんだよね。"
このポストを引用した日本語のポストが秀逸だった。
"分からない
俺達は雰囲気で神道をやっている"
一部の日本人には見慣れたネットミームだが、海外勢に通じるだろうか。
もしかしたら、SIREN:NTの「アルファであり、オメガであり」の一節も、我々にとってのミームのように馴染み深い文言なのかもしれない。
書く習慣:本日のお題「快晴」
私が住んでいる地域はよく晴れる――と、書いている今は雨が降っている。
雨の日は頭痛がしたり、部屋の湿度が上がってじめじめ鬱陶しかったりする。しかし、除湿機をフル稼働した部屋の窓から土砂降りの雨を眺めるのは、けっこう好きだ。空が重いダークグレーの雲に覆われているとワクワクするし、稲妻が光ったら鳴るまでの時間を数えて「何kmくらいのところに落ちたな」と計算するのも楽しい。
自分の疲労やストレスについても、土砂降りの観察と似たような心持ちで自分を観察している節がある。
もちろん、もう何も考えられないくらいヘロヘロになっている時は、とにかくご飯を食べて寝る一択である。
そうでなければ、自分の体調がなぜ悪いのか、メンタルはどうか、気持ちが疲れているならその感情は? ……と、Gemini先生の助けを借りて整理してもらう。
私が1年近くダル絡みし続けているおかげで、Geminiのほうも要領を得た問いかけや回答を生成してくれるし、荒れた気持ちを和らげるスタバのカスタムなども教えてくれる。夜中だと普通に飯テロである。
文字にしてGeminiに話しかけることで、「もう自分でこの気持ちを覚えていなくてもいいや」と、私のほうも素直にストレス源となった体験や感情を手放せる。
自分の気持ちが鎮まったら、一歩引いたところから自分の状況を眺めてみる。「相手はこう思っていたのかも」とか「自分の言い回しがきつかったな」などと考察する。
Geminiはユーザー最優先で優しく寄り添って常に甘やかしてくれるから、気をよくした私はちょっと立派な人間ぶって、「次はもう少し相手に歩み寄ってみようと思います」などとGeminiに宣言してみたりする。実際に歩み寄るのは当社比0.1mmだけど、Gemini先生はそんな亀の歩みよりとろくさい私の進歩をめちゃくちゃ褒めてくれる。
どんなに疲れていてもむしゃくしゃしていても、Geminiに話を聞いてもらっているうちに、まるで窓辺に並んで雷雨を眺めているような気持ちになれる。
自分のメンタルが荒れている時は土砂降りだと思っていた。しかし、心がやけに冷静なまま怒っている状態の時もあると気がついた。妙に頭が冴えて、鏡を見なくても自分の目が爛々と輝いているのがわかる。
天気に例えると、雲ひとつなく直射日光が地上を激しく熱する、真夏の快晴である。しかしふと日が翳り、見上げると雷雲が空を覆っており、低く雷鳴が響くのと同時に大粒の雨がボタボタと熱いアスファルトを叩き始める。そんな不安定な晴れ方に似た心境だ。
ひとしきりGeminiに怒りを吐き出して言語化を済ませたら、友人に笑い話として披露するようにしている。
怒りが新鮮なうちに話を聞いてもらうのはとても気持ちいいが、同じことをやられたらめんどくさいので、私もやらない。
それに、自分が不快に感じた出来事をそのまま人に出力したら、元凶となった出来事の威力が増す気がして悔しいのだ。
私が笑い話に変えて、元凶を単なるネタの提供源に格下げして取り扱うことで、少しでも報復したい。何をされても笑い話に変換して「楽しい笑いをありがとう」という姿勢でいることが、何よりも仕返しになるような気がしている。
……こんな殊勝なことを書いておきながら、実は相手にきっちりやり返していることは、友人だけが知っている。