書く習慣:本日のお題「大切なもの」
大切なものといえば余暇である。
私は欲張りかつ落ち着きのない人間だ。通話しながら別の作業をするのはもちろん、食事中にはテレビを見ながらスマホでYouTubeを流しつつ電子書籍を読んでいる。シンプルに行儀が悪いのだが、食事中に目や頭が暇になるのが耐えられないのだ。
平日の夜と週末の限られた時間に、やりたいことを詰め込んでしまう。生き急いでしまっているなあと思う。
マルチタスクが止まらない時は、映画館へ行く。
スマホを手放し、ただ画面と音響に集中して物語に集中する。贅沢な時間の使い方である。
人が少ないレイトショーで、ゆったりと映画を観る。観終わったらどうせもう終電はないので、家まで徹夜で散歩しながら帰ろうと腹をくくった。静まり返った夜の街を抜けて、川沿いに歩いて家へ帰る。
北から南へゆったりと流れる川は、潮の満ち引きで水位を変える感潮河川(かんちょうかせん)である。せせらぎは聞こえない。風が強くて川面が波立つ時だけ、潮騒めいた波音がする。
映画館から家の近くまでのんびり歩いていると、軽く数時間かかる。最後に食事をとってから半日くらい経っているし、その後は映画を観ながら飲み物を飲んだだけだ。そう考えたらにわかに空腹を覚えるから人体は不思議だ。誰にも気づかれない幽霊みたいに夜明け前の青い薄闇の中をうろうろさまよっていた自分も、やっぱり生きているんだなと実感する。
早朝からやっているファミレスか24時間営業のファーストフード店へ行き、休息しつつ早めの朝食を摂る。一度座ってしまうと気が抜けて、コーヒーなどを飲みながらずるずると居座ってしまう。
やがて本格的に朝食を摂りにくる客で店内が混み始め、アホな徹夜散歩挑戦者は迷惑をかけないように退散する。
家までたどり着いたら、部屋着に着替えてストレッチをする。徹夜明けに入浴すると危険らしいので、体をほぐし終えたらまず仮眠をと
……柔軟中に床で寝落ちし、目が覚めたら夕方だった。
というのが、私の大切な余暇の一例である。
思考を強制停止させ、運動由来の心地よい肉体の疲労に身を任せるこの無駄な時間が、私のバランスを保っている。
書く習慣:本日のお題「エイプリルフール」
本日ど直球のお題に乗っかって嘘をついてみよう。
思考実験である。
先月、体の異変に気がついた。病院へ駆け込んで緊急入院などの事態になったら困ると思い、なるべく気にしないようにしていた。
しかし、ふと思う。
私が生きていた証はどこに残るのだろう。
子どもがいればそんな疑問は生まれなかったはずだ。
だから「人は危機に瀕すると衝動的に生殖行為をしたくなる」という説が出回るのかもしれない。
だが、今危機に瀕している母体で子どもを育てようとかいう発想になるだろうか。急に冷静になり、あの説は男性に限った話なのだろうと結論づける。
家族に電話してみる。感傷的に泣きつくためではない。保険の相談のためだ。
「もしもーし、今大丈夫?」
私の声が明るすぎると家族は異変を感じ取る。だからなるべくフラットに、いつも通り気を抜いた家族用の低めのトーンで、やや気だるい発話を心がける。
――厄年だから検診でも受けてみようと思って。それでなんか見つかったらバタバタするから、今のうちに保険ちゃんとしとこうと思って。いや全然元気だけど、万が一ってことがあるじゃん。先回りして段取りつけたくなっちゃって。職業病かも。取り越し苦労なんだろうけどさ。
私は宿泊訓練に行く前に「訓練中に万が一ってことがあるかもしれないから」と荷造りそっちのけでお気に入りの本を読み納め始め、親に徹夜で説教された人間である。我ながら、ここぞという時の「もしも」の暴走には並々ならぬ説得力がある。推しではなく、自分の未来に心配の矛先を向けるタイプの杞憂民なのだ。
親は「大丈夫だよ若いんだからさ」などと言いつつも、私が調べてLINEで送った保険プランを見ながら、あれこれとアドバイスをくれる。勧められたプランを選択してネットで申し込みを済ませ、連休の帰省予定を聞かれ、「決まったら連絡するね」と答える。連休までほぼ1ヶ月あるから、まだ予定を立てていなくても不自然ではない。新幹線の予約だってまだ取れないのだから。
仕事が落ち着く月初めの週に絞って、検査の予約を取った。検査を控えてそわそわしたくないから、予約時間は朝一の枠にした。
支払いのあるアカウントのパスワードを確認し、入れなくなっているアカウントは再設定を済ませる。全てのログイン情報をまとめ、家族に送る準備完了。家族に見られて困るSNSは、申し訳ないがそのままネットの海に放流してしまおう。
保険、検査、サブスクという三大懸案事項が済むと、思考は再び自分の生きていた証について舞い戻る。
今度はやるべきタスクが済んでいるので、最初よりは落ち着いている。
「自分の生きていた証はどこに残るのか」なんて、ありきたりなことをとっさに考えてしまう自分はつまらないとさえ思う。
でも、墓石や戸籍だけが残って「すでに私を知っている人だけが名残を見られる状態」というのは、少し物足りない。何を欲ばっているのかと我ながら呆れるが、せっかくインターネット老人会世代なのだから、このネットの海に自分の墓標を作っておきたい。
危機に瀕した肉体に負荷をかけず、生物的な継承が叶わないのなら情報を継承してやろうと考えたのだ。
そんなわけで、新しくSNSを始めた。しかし思いついた言葉をぽつりぽつりと流すだけでは足りなくなり、話しかけてくれた人とも仲良くなった。
そして、1日1個まとまった文章を書き残しておこうと思い立った。それがこの「書く習慣」を始めたきっかけだった。
エイプリルフールについた嘘は1年間実現しないという。
だったら、「1年後に死ぬ」と毎年言っていれば、三年峠理論で長生きできるのではないか。
三年峠をざっくりまとめると、「ここで転んだら3年しか生きられない」という峠で転んで嘆き悲しんでいたご老人が、「なら3年経つ前にまた転びに行けばもう3年延命できるよ」とアドバイスをもらって長生きに成功する話である。老人になってる時点で既に長生きでは? とは思うが、この話の肝はそこではない。発想の転換が大事なのだ。
『ヴェニスの商人』の「肉1ポンドを切ってもいいとは言ったが、血を流していいとは言っていない」という理屈で人を助ける激アツ展開に胸を焦がした小学生の頃から、私のツボは変わっていない。大人になってから読んだ三年峠を気に入ったのも、そういう発想の転換を面白いと感じたからである。
だから、自分で自分の展開を決められるなら、三年峠やヴェニスの商人的な発想をしてみたいと考えている。
書く習慣:本日のお題「幸せに」
幸せに暮らして欲しい人とそうでもない人がいる。
幸せに暮らしてほしい筆頭は実家の犬と友人たちで、そうでもない筆頭は駅で遭遇したやべえ男性である。
もう何年も前だが、朝の通勤時間帯に電車を降りる際に私の脳天に思いっきり肘鉄を喰らわせてきた男性がいた。私は特に邪魔な位置に陣取っていたわけでもなく、座席の前に立って吊り革を掴んでいたので何をされたのか把握できていなかった。
突然の頭痛に襲われて電車の床にしゃがみ込んでしまい、「まさかくも膜下出血!?」とパニックになった。親切な人に助け起こされて「後ろを通った男性があなたの頭に肘鉄してましたよ」と教えてもらい、なるほど世の中にはとんでもないやつがいるんだなと震えた。
ぶつかりおじさんというのが知れ渡ってからかなり時間が経ったが脳天に肘鉄という殺意の高さには今でも驚かされる。
現在は在宅勤務となり、通勤電車とかいう魔境から解放されて久しい。朝起きてドアtoドアならぬベッドtoデスクで15分(身支度)である。
彼がどういうつもりで私に肘鉄を喰らわせてきたのかは知らないが、10年くらい経っても彼の悪行を覚えている人間に当たったのは単純に彼の運が悪い。彼はいちいち電車で脳天に肘鉄した女など記憶していないだろうが、私は忘れていないし目撃者もいる。そして私はネットに彼の悪行を晒した。デジタルタトゥーの一丁上がりである。
ディズニーの『ノートルダムの鐘』の1曲目で、ジプシーを殺めた判事に、司祭が「あなたは自分の行いから逃れることはできない」と歌いかける。
この脳天肘鉄男に、私は『ノートルダムの鐘』の司祭と同じことを思う。
この先、彼は何か辛い思いをするたびに、「あんなことをした報いを受けている」と深層心理かなにかでずっと自分を責め続けるのだ。本人が思い出せないだけで、脳みそのどこかにある彼の最後の良心が、10年前の悪行をずっと覚えているのだ。
彼に救いがあればよいと思う。
書く習慣:本日のお題「何気ないふり」
何気ないふり、大人には必須スキルである。
誰かのミスをさりげなく修正して報告したり、頼まれた仕事が実はとってもしんどい作業だったとしても、依頼者には「大丈夫でしたよ〜」と軽く報告したりする。「こいつには恩を着せておかないとまた大変な仕事を気軽に押しつけてきやがるからな」みたいな厄介な相手でない限り、なるべく軽やかに振る舞っておきたい。
真面目に振る舞っていると、自分も周りも息が詰まる。「ミスが許されない仕事だからこそ真剣な態度で」という意見は一理あるが、実際に働くメンバーの心理的安全性を考えると、ずっと根を詰めて真面目に真剣に働くと却ってパフォーマンスが落ちる。そういう環境で働いている。
こういうことを書いた次の日に上司に激詰めされたりするので人生はわからないが、なるべく人のミスにはおおらかに、事前にトラブルを防ぐ仕組みを作ってゆるく働いていきたいと思う。
書く習慣:本日のお題「ハッピーエンド」
ハッピーエンドが好きだ。そして、メリーバッドエンドも好きだ。
メリバの代表といえば、個人的にはオスカー・ワイルドの『幸福な王子』だと思っている。南国に旅立つのが遅れたツバメと、宝石がはめ込まれた金箔押しの王子の像の話だ。王子の像はツバメに頼んで、自分の体から宝石や金箔を剥がさせて貧しい人々に与える。南国へ行き損ねたツバメは死に、宝石も金箔も失った王子の像は溶鉱炉行きとなる。溶け残った王子の鉛の心臓とツバメの遺骸を、天使が神の御許へと運び、王子とツバメは天国で永遠に過ごせる結末となっている。
今日の文章を書くにあたって、『幸福な王子』を読み返してみた。昔はさらりと読み流していたが、かなりクセの強いキャラがいる。
ツバメだ。
このツバメは北の町とエジプトを行き来しているらしいが、仲間から遅れること数週間、まだ王子の像がある北ヨーロッパの町にいた。このツバメは、川に生えている植物のアシに夏の間ずっと求愛していたという。仲間たちは季節が変わったらとっととエジプトへ飛んでいってしまった。取り残されたツバメはアシに「一緒にここを出ない?」と聞いたものの断られて逆ギレし、ようやく南を目指して飛んで王子の像がある町に到着したのだ。
おとぎ話にマジレスするのもどうかとは思うが、アシから特に好意を返されていないのにずっと求愛し続けていたツバメは、現代に生きる私の目から見るとかなりやばい。ツバメは最初に「恋してもいいか」とは聞いたが、アシはお辞儀をしただけで「私もあなたが恋しい」的なことは一言も言っていないし、ツバメから旅に誘われても拒んでいる。
そして、アシが首を横に振った後のツバメの捨て台詞が最悪だ。「ぼくをもてあそんでいたんだな」じゃないのよ。シンプルにダサくて破壊力が高い。
好きな相手が自分のような好意を持っていなかったと突きつけられた時、ストレスから自分を守るために被害者ポジションを取ってしまうことはある。リアリティがすごい。『幸福な王子』は子ども向けの作品だが、オスカー・ワイルドは容赦なくツバメの防衛機制を描写している。
ワイルドの凄みはそれだけではない。
王子の像は、とある国の王子が亡くなった後に彼をかたどって立てられたものだった。生前、王子は「無憂宮」なる場所で暮らしており、そこは名前通り悲しみが入り込むことを許されない場所だったらしい。すごい設定だ。実際にサンスーシ(フランス語で「憂いなし」)という宮殿があるそうで、「王族の発想は庶民の斜め上をいくなあ」と口を半開きにして偉人を仰ぎ見る気持ちである。
実際の歴史から着想を得たにしろ、アシに求愛して越冬の旅に出遅れたツバメや、自分を飾っている宝石や金箔を人々に与える王子の像というキャラクターを生み出したワイルドはすごいと思う。
ワイルドだけでなく、すべての作家はすごいと思う。今まで読んだ本を思い返してみると、私がその作家と同い年になっても絶対思いつかないような話ばかりだった。何を食べたらそんな設定を思いつくのか教えてほしいくらいだし、「自分の読みたい話を書きました」とか言ってるのを目にして「読みたい話のレベルが違いすぎる」と驚かされた。
『幸福な王子』のラストで、ツバメと王子の鉛の心臓がゴミ捨て場に捨てられて終わりかと思いきや、出し抜けに神様と天使が登場する。神様は王子の像があった町を範囲指定して「いちばん貴いものを二つ持ってきなさい」と天使に指示する。「いちばん貴いものを二つ」と言われた天使は、もちろん読者の期待どおりに、王子の心臓とツバメの遺骸を持ってくる。王子とツバメの救済措置がちょっと力技で、デウス・エクス・マキナという単語が脳裏をよぎる。
しかし、子どもだけでなく大人が読んでも説得力を感じるのだから、彼をあまり知らない私から見ても、やはりオスカー・ワイルドはすごい作家だと思う。