『ティーカップ』
むかし、英国に留学した友人が、お土産にティーカップをくれた。
あちらの蚤の市で見つけたのだとか。
白磁にスイートピーの花が描かれている、可憐で上品なものだ。それに合わせたティースプーンにも同じ柄が描かれている。
一目で気に入り、以来紅茶を飲む時はそれを使っている。
あれから長い年月が経ち、結婚とともに遠くへ行ってしまった彼女とは、疎遠になってしまった。
そろそろ、温かい飲み物が美味しい季節。
今でもティーカップは使い続けている。
『寂しくて』
今日もまた、時計の針が日付をこえた。
シンと静まり返った部屋で、私はベッドに潜り込み、スマートフォンの画面をただスクロールする。
「……さむい」
誰にともなく呟いてみるが、壁は冷たい沈黙を返すだけだ。
メッセージアプリを開けば、グループチャットには楽しそうなスタンプや短い会話の履歴。
私が入れる隙間はない。
冷蔵庫には作り置きの惣菜。洗濯物も畳んである。部屋も、奇麗とは言えないがそこそこ片付けてある。
やるべきことはやっているはずなのに、満たされない虚しさが胸の真ん中に居座っている。
それが、冬の夜の底冷えのようにひたひたと、確かな痛みとして私を覆う。
耐えきれず、ベランダに出た。
夜風は冷たく、街の灯りがやけに澄んで瞬いている。
この街に、私と同じ思いを抱えた人は、一体どれほどいるのだろう。
ぼんやりとそう考えたとき、下の階の窓から小さな明かりが漏れているのが見えた。
誰かが、まだ起きている。
それだけのことが、ほんの少しだけうれしい。
私は冷えた両腕を何度かさすり、再び部屋に戻った。
明かりを消しても、その小さな窓の光だけが瞼の裏に焼き付いていた。
『心の境界線』
気がつけば、誰とも触れ合うことのできない壁の中にいた。
私の周りにぐるりと引かれた線の内側。透明で、少しひんやりとしている。誰も入ってこられない。
「大丈夫?」
隣に座るあなたは、いつも心配そうに声をかけてくれる。
その声は壁の外から届くせいか、遠い昔に聞いた笛の音のようだ。
私は微笑みで応える。
自分の身を守るために。
ある日、あなたは私に小さな贈り物を差し出した。
それを受け取るとき、ほんの一瞬、その指先が私に触れた。たったそれだけの出来事。
なのにその瞬間、私を取り囲んでいた壁に、ごく僅かな、しかし確かなヒビが入ったのを感じた。
あなたの屈託のない笑顔が、雲間から差し込む陽の光のように、ヒビを通して線の内側まで届いた。
壁は崩壊しない。
まだ私は守られている。
それでも私は知った。私の小さな世界が破られることもあるのだと。
どうしよう。
あなたはそのヒビに気づいていない。
どうしようか――あなたを。
『透明な羽根』
古びたアパートの埃っぽいベランダに、それは落ちていた。
最初は、ただの光の反射だと思った。
西陽がコンクリートの床に鋭い斜線を描き始めたとき、微かにキラリと光ったもの。
目を凝らすと、それは紛れもなく羽根の形をしていた。
大きさは手のひらほど。完全に透明で、向こう側の景色が歪みなく透けて見える。
よく見ると、極めて細い繊維が幾何学的に組み合わされており、その輪郭だけが光を捉えて、まるで水が固まったかのようだった。
触れようとすると、指先に冷たい痺れを感じ、代わりに過去の記憶がひとつ消えた。
なんの記憶が消えたのかは思い出せない。
きっと些末なことだろう。
それが忘れ去りたいものだったのなら、ありがたいのだけれど。
『灯火を囲んで』
ダイニングの照明は、いつものように煌々と点いていた。
テーブルには完璧にデコレーションされたショートケーキ。
その真ん中には、年齢を表す数字の形の蝋燭が、淡いオレンジの炎を揺らしている。
私は椅子に座り、その炎を静かに見つめていた。
向かい側には昨日まで友人だと思っていた女。
「ありがとう! お祝いしてもらえるなんてうれしい!」
彼女の顔は喜びに輝いている。
「お願い事、した?」
素知らぬ顔でそう尋ねると、うん!と弾んだ声が返ってきた。
そう、きっとそんなもの、叶わないでしょうけど。
私は立ち上がり、キッチンから包丁を持ってくる。柄の部分が黒く、刃先は照明を鋭く反射していて――よく斬れそうだ。
「じゃあ、切るわね」
ケーキじゃない、別のものを。