『答えは、まだ』
ずっと続く暑さのせいで、本を読んでいても頭にスッと入ってこない。
読んでいるつもりでも、気づくと同じページをぼーっと眺めていたりする。
普段ならそれでもいいのだけれど、図書館から借りてきた本だと事情が変わる。
返却期間内に読み終わらないのだ。
延長できるものは延長するが、次の予約が入っているものはなんとしても期限までに返さなくては、と焦ってしまう。
一度返して、また予約を入れ直して、順番が回ってくるのを待つ。
――ということも、もちろんする。
するけど、しかし。
私はミステリ好きなのだ。
読んでいる本の八割はミステリだと言っていい。
途中まで読んだミステリの、犯人が誰か動機は何かトリックはどうやったのかを分からないまま、数週間から数ヶ月待つことのモヤモヤときたら……
もちろん悪いのは私である。
決められた期限内に読み終わらなかったのは、私なのだから。
そうして期限ギリギリまで足掻きに足掻く。
今日が期限のこの本を、仕事終わりに図書館の返却ポストに入れなくては。
ああ、もうじき昼休みが終わる。
まだ、犯人の名前が出でこない。
私は自分で推理して楽しむタイプじゃないんだ。早く答え合わせをしてほしい。
でも、最後のページだけ見るなんてことしたくない。
ああ、あと5分したら洗面所に行って歯磨きしなくちゃ。
でも、この謎の答えは、まだ――
『センチメンタル・ジャーニー』
かつて、そう平成の半ば頃まで。
女の一人旅は、何かワケありではないか、失恋して死に場所を求めているのではないかなどと、邪推され嫌われていたものだった。
ホテルも旅館も女性の一人客は泊めてもらえず、純粋に旅を楽しみたいだけだと言うと、オカシナものでも見るような目で見られ、変人扱いされたものだ。
それを思うと、今は楽になった。
「おひとり様」という言葉が流行り、旅も食事もカラオケも一人で楽しむことができるようになった。
そもそも、失恋したら死ぬなんて、命が幾つあっても足りないじゃないか。
たとえ失恋旅行をしたとしても、「旅行して癒されて美味しいものいっぱい食べてスッキリしよう!」という感覚だ、今なら。
だから、そんなに何度も様子を見に来ないでほしいです、宿の人。
私は死んだりしないし、なんなら失恋もしていない。
仕事で疲れてリフレッシュするためにふらっと来ただけだから。
そう思いながら、鄙びた旅館の、テーブルの上に並べられた郷土料理に手を付けた。
『君と見上げる月…🌙』
宴の喧騒が、閉められた窓越しに聞こえる。
そっと抜け出した小さなベランダで、なんとはなしに月を見上げる。
細く折れそうな、弱々しい三日月。
まだ昼間の暑さが抜けきらない温い空気は湿度を含んでいて、そのせいか月も星もぼやけて見える。
「今日はありがとう」
追いかけてきたアナタが言う。
その薬指には、今日嵌められたばかりの銀の指輪が光ってる。
なにも話したくない私は、ただ黙って空を見続ける。
君と見上げる月は、これが最後。
ポツリポツリとなにか言っていたアナタが、少し淋しそうに部屋の中へと戻っていった。
湿度が高いな。
星も夜景も、やけにぼやける。
頬にもなにか流れてきた。
こんなにも滲む月なんて、もう二度と見るものか。
『ページをめくる』
ページをめくると、いつだって違う場所へ行けた。
海でも山でも外国でも。
それこそ、宇宙や異世界にだって。
小さい頃は本を読んでいると「勉強して偉いね」とか「本を読むと賢くなるよ」なんて言葉をかけられたけど、そういうのは得てして、普段本を読まない人ほど言うものだ。
本好きは、単に楽しいから読んでいる。
ワクワクしたり、ドキドキしたり、悲しくて胸が張り裂けそうだったり。
そういう体験を楽しんでいるのだ。
ミステリや幻想やSFが好きな私は、現実でそんなことが起こったら、きっと何もできない。
ただただびっくりして、ショックを受けて、どうしたらいいのか分からずに呆然としてしまうことだろう。
快刀乱麻を断つような推理は、耳で聞かされても多分すぐには理解できない。
え?なんて?って、頭の中がハテナでいっぱいになるだろう。
文字で読むから頭の中で整理がつく。
外国語のヒアリングとリーディングで感じるアレだ。
特に日本語は同音異義語が多いから尚更。
そんなわけで、今日も私はページをめくる。
今読んでいるのは、猫に蹂躙されたい人のための短いホラー短篇集だ。
『心の中の風景は』
心象風景、とでもいうのだろうか。
子供の頃からずっと、目を瞑ると浮かぶ景色がある。
静かな木立の少し開けた場所にある、小さな山小屋。
外側には薪が積み上げられ、傍らには古い切り株に斧が立てかけてある。
中に入ると意外にも清潔で、全開にされた窓からは爽やかな風が吹き込んでいる。
誰もいない。私ひとり。
いや、そもそも風景だけが見えているので、私がそこに存在しているとも言えないか。
長いこと、そこには何の変化もなかった。
ところが、少し前からその景色の中に黒い影が見え隠れするようになった。
はじめは家の外の地面に。
次は家の壁に。
その次は家の扉に。
やがて、家の中にその影は入ってきた。
この影はいったい何なのだろう。
私の心の何かなのだろうか。
それとも外から入り込んだ何かなのか。
今では家の中の中央に、小さく開いた穴のように存在している。
床にではない。空間に、である。
家の真ん中の、ちょうど私の目の高さ。
ソレを覗いたら何が見えるのだろう。
ソレに指を差し入れたらどうなるのだろう。
私の心の、更に深いところの景色が見えるのだろうか。