『記憶』
「私の記憶が確かならば」という言葉で始まる料理番組が昔あった。
和の鉄人、洋の鉄人、中華の鉄人。
熟練した料理人たちの手捌きは、見ているだけでも面白かった。
即座にメニューが頭の中で組み立てられ、手順や調理時間が計算され、極力無駄を排して作業が進む。
様々な献立が詰め込まれている頭だけでなく、長年に渡って調理してきた体もまた料理を憶えているのだろう。
そう、数え切れないくらい繰り返してきたことは、体が記憶する。
思わず現実逃避してしまったが、目の前の問題は解決していない。
足元には、事切れた男の死体。
背後から襲いかかられたので、思わず反撃してしまった。正当防衛ではあるが、過剰防衛でもある。
ふう、とひとつ息をつく。
大丈夫、この後の処理方法もちゃんと記憶しているから。
『もう二度と』
ここはどこ?
起き上がって辺りを見回すと、足に鎖が繋がれていた。
ジャラリと重たい音がする。
周囲は石造りの壁、今しがたまで自分が寝ていた簡素なベッド、同じく簡素な木の椅子。それだけ。
窓がないことに動揺した。
扉はある。木製で、鉄か何かの丸いドアノブがついている。
そこまで鎖が届くかどうか確かめるために立ち上がる。
ドアノブに手が届くか届かないかの絶妙な位置で、足が鎖に引っ張られた。
やっぱり、と落胆してベッドに戻ると、枕元に一輪の花が落ちているのに気がついた。
目立たない小さく可憐な青い花。
勿忘草だ。
花言葉は「真実の愛」。
そして「私を忘れないで」。
この花を取ろうとして急流に転落した騎士が、今際の際に恋人に捧げたという花。
嗚呼、初めて涙が頬を伝う。
あの人は殺されてしまった。
私の髪にこの花を挿してくれた、あの人は。
転生したという私の話を信じてくれて、運命を変えるために一緒に行動してくれた、あの人は。
もう二度と、あの微笑みを向けてくれることはないのだ。
『大好き』
人でも物でも、大好きと強く思ったことがほとんどない。
いいなぁとか、好きだなぁくらいなら儘ある。
逆に、大嫌いだと思うこともほとんどない。
友人に、大好きを連発する人がいる。その人は感情の起伏か激しくて、大好きと言った次の日には大嫌いだと叫んだりする。
思うに、大好きと大嫌いは天秤の両端なのではないだろうか。
人でも物でも、その天秤に乗せられてどちらに傾くかはその時次第なのだ。
感情の振り幅が大きい人は、ガタンと勢いよく傾いてすぐに大好きか大嫌いにまで達する。
逆に、振り幅が小さい人は傾きも小さいからそこまではいかず、せいぜいいいなぁどまり。
件の友人を見ていると、常に忙しなく天秤があっちにガタン、こっちにガタンと揺れているように思える。
まぁまぁ、お茶でもどうぞと声をかけたくなるけど、下手に話しかけるととばっちりを食うので静観している。
『花の香りと共に』
雨も上がったし、お日様も出てる。
こんな日はちょっとしたお菓子を持ってプチピクニックだよね。
――と、家を出たものの、強風で髪はグチャグチャ、お菓子を広げる事も出来ない。
チラホラと咲き始めた花も、今にも折れそうな勢い。
ていうか、ホントに折れた。ポッキリと。
目の前に落ちた、ふんわりした菜の花。
拾い上げてなんとなく匂いを嗅ぐ。
今日はこのまま帰ろう。
この菜の花の香りと共に。
『心のざわめき』
「よかった、約束通り来てくれて」
隣に座った人に、そう話しかけられた。
なんのことだか分からない私は、出来るだけ関わらないよう、ジリジリと体を反対側へずらす。
「去年の今日、ここで約束しましたよね。来年の今日、また会おうと」
知らない。そんな憶えはない。
誰かと間違われているのだろうか。
少し、怖い。
「憶えていませんか? あなたは忘れやすい人だから。でも大丈夫、私がちゃんと憶えていますよ。ただ、忘れられたままというのは寂しいので、少しお話ししましょうか」
そう言ってその人は、私との出会いと約束を話しだした。
聞けば聞くほど記憶になく、どう考えても私ではない誰かの話としか思えないのに、微に入り細を穿つその話は次第に私の胸に染み渡っていった。
「ああ、着いたようです。さあ、一緒に行きましょう」
この手を取れば、二度と元へは戻れない気がした。
本当に、私は約束したのだろうか。
まったく記憶はないけれど。でも――
心のざわめきを抑えながら、私はどうするか決めた。