Open App
3/12/2025, 1:32:15 PM

『終わり、また初まる、』

その人は、死者の魂を船に乗せて彼岸へと送り届ける仕事をしていた。

若い娘が亡くなったときも、
働き盛りの農夫が亡くなったときも、
自分の年老いた母親が亡くなったときも、
その人は黙々と魂を送っていった。

「あの人をよろしくお願いします」
「あの子をどうか無事に向こうへ」

残された家族は大抵そう言う。
なぜなら、魂が彼岸へと辿り着けなければ輪廻の輪に入れなくなるからだ。
その人はいつも黙って頷き、船の舳先に灯したランタンを家族に触れさせる。
その仄かな温もりに、家族たちはほっと息をついて見送るのだ。

「つれていかないで」
ある時、親を亡くした幼子がその人にしがみついた。
その人はしばらく考える素振りを見せ、ランタンの灯を触れさせながら答えた。

「人の旅路はここで終わり、また初まる、まっさらな状態で、初めから、何度でも。そのうちのどこかで、出会うこともあるだろう」

幼子は目を凝らし、軋む音を立てながら遠ざかる船をじっと見つめ続けた。

3/12/2025, 9:59:01 AM

『星』

昔、なにかの本で読んだことがある。
いま見ている星の光は、何百年、何千年、何万年前のものだと。

地球からの距離にもよるけど、基本的には過去の姿だ。
光の速さは秒速約30万km。
1秒前の光ですら、30万kmも離れた場所から来ている。

自分が生まれるずっと前、遥か昔の光を私たちは見ているのだ。

あの星も、その星も、いまでもまだ存在しているのだろうか。
私の目に届くまでに、どんなことが起こっているのだろう。
私がそれを目にすることはないのだろう。
とても不思議で壮大な話だ。

3/11/2025, 8:59:01 AM

『願いが1つ叶うならば』

十年以上昔のあの日にかえって、みんなに「逃げて」と言って回りたい。
手当たり次第に、道で出会った見知らぬ人だろうと構わずに。
逃げて逃げて逃げて、と。
きっと相手にされず、頭がおかしくなったと思われるだろうけど。

でも、時間は逆行しないし、失われたものは戻らない。
ひとつの災いから逃れても、毎年のように何かが起こる。
だから、平和や平穏無事を祈る。
一見ささやかに思えるそれが、なによりも難しい願い事だと思うから。

3/9/2025, 8:36:45 AM

『秘密の場所』

このまま泥濘んだ道を歩き続けたら、せっかくおろした靴が駄目になってしまう。
何度か口を開きかけ、その度に閉ざしてきたが、もう限界だ。

そもそも、なぜデートでこんな山道を歩かされなくてはならないのか。
これまでに数え切れないくらい二人で出かけてきたが、こんなところに連れてこられたのは初めてだ。

恋人が何を考えているのかわからずにいると、ふと前を歩く足が止まった。

「着いた」

嬉しそうな顔で振り向かれても、絆されてはいけない。
一言文句を言ってやろうと、口を開いて――固まった。

なんと見事な。
見渡す限り一面の花。それも澄んだ青一色。
まるで空の上にでもいるような。

「ここは秘密の場所なんだ」とはにかんだかと思うと、突然手を取られた。

ああ、やられた。これはアレだ。
ロマンティックさの欠片もないと思っていた人に、真剣な眼差しで見つめられて。
こんな美しい場所で請われたら、うんと頷くしかないではないか。

3/8/2025, 9:37:15 AM

『ラララ』

風が運んできたその声は、小さく掠れていた。
それでも私の耳に届いたのは、ひとけのない裏通りだったからだろう。

見るとひとりの青年が、スマートフォンに向かって「ラララ」となにかのメロディーを吹き込んでいる。

気づかないふりをして通り過ぎた後、何の気なしにそれを口ずさんでみた。
なんの曲だろう?
どこかで聞いたことがある気がする。たぶん、日本の曲。
J-POP?
童謡?
音楽の教科書に載っていた曲?
わからない。思い出せない。
こういうのは後を引くやつだ。頭の中に居座って、正体を見破るまで離れない。

そうなる前にと、本当はもうそうなりかけているのだけれど、スマートフォンを取り出して音声検索をかける。
マイク形のアイコンに向かってラララと吹き込んだところで、ハッとした。

さっきの彼も、同じだったのでは?

振り返ろうとした私の横を知らない誰かが通り過ぎた。
私の声など気づいていませんよという風に。
でもきっと、あと数歩もしたら口ずさむはず。私たちと同じメロディーを。

Next