『一輪の花』
よく、病院に行く度に思うことがある。
私の言うことが、医師や看護師に正確に届いていない、と。
痛みや苦しみをなんとか伝えたいのだけれど、向こうは「よくあること」として処理するか、彼らの経験則に依って「それはこうだから」と私に言い聞かせる。
それはそうなのだろうけど。
どうしようもない不安や苦しさを、解ってほしいと思ってしまうのだ。
でもそれを彼らに期待するのは、少し違うのかもしれない。カウンセラーとか、そういう職業の人は別にいるのだから。
帰りのバスが来るまで、病院の中庭でベンチに腰掛ける。
入院患者の無聊を慰めるためか、やさしい色合いの可憐な花々が咲いていた。
それを少し眺めた後、立ち上がって院外へと歩く。
バス停のある石畳の間から、ひょろりと頼りなさげな白い花が一輪咲いていた。
中庭の花々とは比べものにならない、ちっぽけで目立たない地味な花。
誰にも気づかれずに踏まれてしまうかもしれない花。
バスが来るまでのあいだ、目が離せずにじっと見つめ続けていた。
『魔法』
寒かったので、ホットカフェオレとフォンダンショコラを頼んだ。
シンプルな白い皿の上に盛り付けられたチョコレートケーキ。
上にはバニラアイスがちょこんと乗っていて、脇に添えられた小さな容器には、赤みの濃いラズベリーソースが入っている。
そのカフェは、私たちの間で密かに「魔法のお店」と呼ばれていた。
ここでお茶をすると、どんなに疲れていても元気になったし、嫌なことがあっても気分が前向きになるのだ。
フォークを刺すと、中からとろりとチョコレートソースが流れ出し、途端に濃厚な甘い香りが広がった。
まずはそのまま。
美味しい。チョコレートの深い味わいに、思わず目を瞑る。
次はバニラアイスと一緒に。
バニラとチョコが混ざり合って、さっきよりもやさしい味になる。
その後フランボワーズソースをかけて。
鮮やかな赤いと黒みの強いチョコレート生地が、くっきりとしたコントラスト。濃厚なチョコにラズベリーの酸味が爽やかだ。
ほう、と息をついてカフェオレに口をつける。
ああ、至福。
美味しいものは、人間が生み出す最高の魔法である。
『君と見た虹』
昔、うちにプリズムがあった。
未だにプリズムの使い道はよくわからないけど、当時子供だった私はそれを「虹の三角」と呼んでいた。
近所に住む仲良しのKちゃんが遊びに来た時には、決まってそれを持ち出し、ベランダ脇の大きなガラス窓の下に寝そべって、プリズムが生み出すささやかで小さな虹を飽くことなく眺めていた。
ある日、Kちゃんが寝そべりながらつまらなそうに言った。
「うち、引っ越すんだって」
その時自分がなんと答えたのかは、覚えていない。
ただ、その日以降プリズムを眺めた記憶がないから、もしかしたらKちゃんにあげてしまったのかもしれない。
あの小さな虹は、今もKちゃんの手元にあるだろうか。
『夜空を駆ける』
「銀河経由臨時便が増便されました。ご利用の方は、搭乗口へお向かいください」
疲れ切った耳に、どこか気怠げなアナウンスが聞こえた。
――増便?この時期に?
訝しく思ったがそんなことは後で考えるとして、先の便に乗りそびれていた私は、これ幸いと搭乗口へ向かった。
搭乗口では私と同じように先ほどまで途方に暮れていたらしき者たちが、ちらほらと集まっていた。
これといった混乱もなく、全員が乗り込み終えて出発する。
窓の外に広がる光のない景色。
「どうやらオールトの雲で新たな彗星が生まれたようですよ」
「なるほど、それで」
近くの席の者たちの会話に耳を傾ける。
――そういうことか。
しばらくすると、炎を上げて燃え盛る赤い恒星が見えてきた。
他の乗客たちも、なんとなく身を乗り出して眺めている。
第三惑星の付近を通り過ぎた時、少し違和感を覚えた。
以前通った時は、もっと青かったように思うのだが、だいぶ色合いが変わっていたような。
「あの星も変わりましたわね」
「ええ、本当に。少し残念ね」
やはり気の所為ではないらしい。
そういえば、あの星の主要生物はこの便を「流れ星」と呼んでいるのだと同僚に聞いたことがある。
あの星から見ると、ほんの一瞬美しい光跡を描いて見えるそうだ。
『ひそかな想い』
とても、とても、後悔していることがある。
酷いことをした。
当時の私は、それをわかっていなかった。
何年も何十年も経って、ある日ハッと気がついた。
きっとあの時、私はあの人を傷つけた。
しかも無自覚に。
どうして今の今までそれに気づかなかったのだろう。
私が未熟だったから?
周りが見えていなかったから?
あの人の事情を知らなかったから?
でも、そんなことは言い訳にならない。
没交渉となった今では謝ることもできない。
蒸し返されても嫌な思いをさせるだけだろう。
だから、ひそかに想うだけだ。
かつての友が、幸せであるように。
私のことなど忘れて、笑顔でいるように。