『遠く....』
いつも、ここではない何処かへ行きたいと思っていた。
上手くいかない人間関係も、失敗ばかりして苦しい仕事も、現状を打破出来ない自分も、なにもかもが嫌で、嫌で。
「山のあなたの空遠く、幸ひ住むと人のいふ」
山の彼方の、ずっとずっと遠い空の向こうまで行けば幸福があるのだと、人は言う。
それを信じていたわけじゃないけれど、こんなに遠くまで来ても幸せになれないなんて。
深くため息をついて窓の外を見る。
ここから山は見えないけれど、幸いがあるという場所はどこにあるのだろう。
「おい! 聞いているのか! おまえとの婚約を破棄する! この国から出て行け!」
まさかこんな、異世界へ来てまで理不尽な目に遭うとは…………反撃したくなるじゃない?
『静かな夜明け』
寒かったので、ホットココアを淹れてチョコレートを一粒口に含む。
今は寒波が到来中で、今日明日が寒さの底らしい。
深夜の作業は手がかじかむけれど、この静けさはなにものにも代えがたい。
しんと静まり返った部屋の中で、ひとり耳を澄ます。
生き物たちの眠る音、夜が更けゆく音。
それを身体に取り込んで、指先から出力する。
言葉を曼荼羅のように編み上げる。
時折綻びを見つけては修正を繰り返す。
行ったり来たり。なかなか先へと進まないが、そこを怠っては目も当てられないものになるのだ。
集中力が途切れたので窓の外へ目をやる。
夜の底が白くなった――という一文を思い出す。
あれは雪国の景色だったけど、明け方の空も白くなる。
光が差し始める前のほんの一瞬。夜と朝のあわいがそこにはあるのだ。
『永遠の花束』
願いが叶うなら吐息を白い薔薇にかえたい、と歌う曲があった。
そして逢えない相手を想って部屋中に飾るのだそうだ。
随分と気の滅入る部屋にならないか?
薔薇が美しければ美しいほど、哀しみが際立ちそうだ。
私だったら、そうだな。
その花を集めて花束にでもして、売って売って売りまくる。
虚しさの象徴なんて手元に置いておきたくないし、相手に対するムカつきを現金に換えて可視化する。
やがて一定の額を超えたなら、その相手を捨てる決心もつくだろう。
なんだ、こんなにも蔑ろにされていたのかと。
その後ようやく、笑えるようになるんじゃなかろうか。
よく笑顔を花に例えることがある。
花がほころぶような、とか。
逆に、花が咲く様子を花が笑うと言ったりもする。
どうせ咲かせるならそちらの方がいい。
そしてそれを胸にひとつずつ集めていけば、人生の終わり頃には、きっとなにものにも代えがたい花束ができているのだろう。
『やさしくしないで』
昔から、頼み事や相談という名の厄介事を持ちかけられることが多かった。
見知らぬ人に道を尋ねられることも本当に多い。
よく言えば無害、悪く言えば舐められ軽んじられやすいのだ。
もうこの歳になると、相手がこちらの手助けを前提に困り顔をして見せているのがわかるので、手伝いを申し出たりはしない。
あなたが嫌なものは、私だって嫌なのだ。
それで、あてが外れたと憤慨されようが、しつこくこちらに関わらせようとしてこようが、ばっさり切ることに躊躇いがなくなった。
そんな輩は私にとって害である。
罪悪感を持つこともない。
もう、あなたたちにやさしくしないで生きていけるようになった。
ようやく、だ。
『隠された手紙』
祭壇の前で組んでいた手を解き、顔を上げて周囲を見回す。
誰もいないのを確かめて、前から4列目の左端の席へと向かった。
教会へ来たのは、罪を告白するためではない。そこに隠されたものを回収するためだ。
椅子の裏を手で探ると、カサリと紙片が触れた。
手のひらの中に収まるほどのそれに目を走らせ、内容を頭に入れるとライターで火を点ける。
欠片が残らぬよう灰を揉んで風に飛ばしてから、そこを出た。
次の依頼は裏でいろいろ噂のある連邦議員の抹消。できるだけ自然な形でということだ。
いくつかの方法を吟味しながら、教会を後にした。