『鏡の中の自分』
ある朝、鏡に映る自分が幼い子供の頃の姿になっていた。
と言っても、自分の本体が若返ったわけではない。鏡越しでなく、直接見る手足や身体は大人のものだ。
鏡に映る自分は、随分と貧相な風貌だった。
生気がなくて痩せこけて、いかにも不健康そうな。
子供を飢えさせているような気になったので、それからは食事と睡眠をきちんと摂るようにした。
しばらくすると、子供は頬がふっくらし血色がよくなった。
すると今度は身なりが気になるようになった。
最初の貧相という印象は、どうやら顔色だけが原因ではなかったらしい。
着古したよれよれの服は、健康そうな顔つきとは似合わない物だ。
服装を改め、華美ではないが清潔感のあるこざっぱりとしたものを身に着けるようにした。
化粧や宝飾品の類は、子供に似合わないので除外した。
今では毎日が面白い。
昔流行ったタマゴを育てるゲームのように、鏡の中の自分を育てるのが楽しいのだ。
そんな時、職場の同僚に声をかけられた。
小さくそっと「君も鏡の中の自分を育ててるの?」と。
もしも彼とふたり並んで鏡を覗いたら、そこにはどんな子供がいるのだろう。
何かを期待している様子の彼に、にっこりと笑って頷いた。
『眠りにつく前に』
月の光を水晶の小壜に詰め、わすれな草の汁にスミレの蜜を足して淡い色水を作る。
一見、薄すぎる色合いだが、それで文字を書き、窓辺によって月明かりに当てると紙面に青く浮かび上がるのだ。
私はこのインクが気に入っている。
毎晩、眠る前に一壜ずつ作り続けるくらいには。
朝になるとこのインクで心に浮かぶまま文字を書き、それをそっと部屋の小窓から外へ落とす。
私の部屋は高い高い塔の天辺にあって誰も寄りつかないので、いくらでも時間はあるのだ。
夜になって月光が射すと、塔の下に無数の淡い青色の光が浮かび上がる。
とても美しく幻想的だが、私の他に見る者はない。
私は出来上がったばかりのインクに、イラクサの棘で傷をつけた指を浸す。私の血がゆっくりと滲み出すのを息を止めて見つめる。
思わず微笑んでしまうのも仕方がない。
今夜、このインクで書いた文字は強い力を持つだろう。
これまで落としてきた紙に書かれた文字のすべてが反転され、恐ろしい災いを呼び寄せるだろう。
私は髪を伸ばして塔から降りようなんて思わない。
そんなことでこれまでのすべてを許そうなんて思わない。
手を離すと、紙が赤紫に光りながらひらひらと落ちてゆき、地面に触れると同時に周囲の紙が一斉に真紅に燃え上がった。
さあ、始まった。
永久の眠りにつく前に、私はこの国の終焉を見るのだ。
『永遠に』
「魔法少女にならないかい?」
言った途端に「何言ってんだコイツ?」という顔をされた。
うん、仕方がない。よくあることだ。
胡散臭いし、信用ならないよね。
その言葉の裏に、どんな落とし穴が待ち受けているのか疑うのもわかる。
なにより、言ったボクもそう感じている。
だけど、考えてみてほしい。
何かというと「永遠」を口にするのはキミたち人間だよ?
今この瞬間が永遠に続きますように、とか。
この人と永遠に一緒にいられますように、とか。
笑っちゃうよね。
時を止めることと、果てしなく続くことの違いも解っちゃいない。
それに比べたら、ボクは良心的だと思うけどなぁ。
戦いに敗れた時は、キミの命をこのステッキに籠めて次の子に託してあげる。
その子が戦いに敗れたら、また次の子へ。
上手くすれば、キミは永遠に生き続けられる。
まあ、詭弁だし、このステッキには既に何百という命が籠められているんだけどね。
いや、なんでもないよ。
「さあ、いま一度問おう。魔法少女にならないかい?」
そして、永遠に終わらない悪夢をキミに。
『理想郷』
「おたくのご主人、浮気してるわよ」
そう忠告してくる人がいる。
いや、忠告じゃなくてからかっているか、馬鹿にしに来ているのかもしれない。
学生時代も「あなたの彼、他の子と一緒にいたよ」とかよく言ってくる人がいた。
人のことに首を突っ込んで、こちらが揉めるのを期待しているのがまるわかりだ。ワクワクしているのを隠しきれていない。
「あら、そうですか」
と答えると期待を裏切られたと憤慨するのだ。
だが、それも悪くない。
まるで私が、ちょっと突つけばショックを受けて涙を浮かべるようなかよわい人間のようではないか。
少なくとも相手はそう思って言ってくるのだ。
いい、実にいい。
帰宅した夫にそのことを話すと、彼も楽しそうに「いい傾向だ」と笑った。
食後にふたりで仕事道具の手入れをする。
血をふき取って錆止めをして、薬物の補充も忘れない。
私たちがどういう人間なのか知られずに、ごく平凡な家庭だと思われているこの状況は、得難い理想郷のようなものだ。
『懐かしく思うこと』
「忘れたくても忘れられない、そんな恋の話でも出来たらいいんだろうけれど、生憎そういうこととは縁遠くてね」
そう言って、月を見上げる人の横顔を黙って見ていた。
「なにしろ僕はほら、春が終わる頃には雪解け水になってしまうから」
異国の地で出会ったのは不思議な人で、そばにいると凍えるような冷気を感じる。
そのくせどこか人懐こくて、つい話しかけてしまった。
「東の国にね、素敵な蝋燭を作る子がいるんだ」
金木犀の香りの、淡く光る蝋燭なのだという。
「その蝋燭に火を灯すと、炎の中にいろんなものが見えてきてね」
見知ったもの、見知らぬもの、幼いもの、老いたもの、美しいもの、醜いもの。
不思議と、どれもが懐かしいのだと言う。
「もしかしたら、僕が忘れたくなくても忘れてしまったものを、見せてくれているのかもしれないね」
君にも一本あげよう、と彼は淡く光る蝋燭をくれた。
手にした途端に火が灯り、たくさんの物や人が次々と灯りの中に映し出される。
「人はそれを走馬灯と呼ぶらしい」
彼の言葉を最後に、私の意識が遠のいてゆく。
遭難した雪山で、凍えて動けなくなった私を見ても驚くことなく、最期まで付き合ってくれた不思議な人。
私が今、穏やかな気持ちでいられるのはこの人のおかげだ。
手の中で小さくなる蝋燭の灯り。
私がそれを懐かしく思うことは、もうすぐなくなる。