『夜景』
「そこには綺麗な花畑が広がっていて、なぜか懐かしい気持ちになりました」
うっとりとどこか遠くを見るように、その人は言う。
私は返事をせず、夕飯を並べる手を止めない。
窓の外に広がるのは、湿度でうっすらと靄がかった夏の夜景だ。雑居ビルの隙間に薄汚れた路地裏が見える。花畑など、どこにもない。
「はじめはね、腹が立っていたんですよ。蝋燭を渡したくらいで、こんなことになるなんて思わないじゃないですか」
もう一度窓を見る。
夜景の手前、照明が反射して硝子に映し出された室内は、私の他に誰もいない。
「でも、あんなに綺麗な花畑を見せられたら、怒る気も失せてしまって」
私は返事をせずに夕飯を食べ始めた。
『命が燃え尽きるまで』
どうも、おばんでござんす。
Y君からのLINEで召喚されまして。ええ、こちらに伺うようにと。
なんですか、命が燃え尽きるまでを見届けたいとか。ははぁ、よくわかりませんが、つまりは誰かの死に目に立ち会いたいと、そういうわけですかな?
ちなみに『死神』はご存知ですかね? ええ、そちらもですけど、落語の演目のほうの。人間の命の火を灯す蝋燭を交換する話なんですけどね。
あぁ、あそこの蝋燭、ええとアロマなんとかのやつですかな、太くて立派なもんですな。それにちっとばかし火を点けてこっちにいただけますかな、ええ、そう、そんな感じで。
この立派な蝋燭がアナタ様の命の灯火だとして、それをこの小さくて細い蝋燭、たまたまアタシが持ち合わせてたヤツなんてすが、ええ、これね、仏壇なんかの燈明に使う、中でも一番小さくて細い、女性の小指ほどもないやつなんですけどね、これにその灯火を、こう、こうして移し替えると。
さあ、これで終いです。
どうです? これ、この灯火が消えた時がアナタ様の命が尽きる時ですな。
え? 冗談なんかじゃありませんよ。こっちだってそんなに暇じゃありません。はあ、なにをそんなに怒ってるんですかな。命の燃え尽きるまでを見届けたかったのでしょう?
いいですか、冥土の土産にお教えしますが、自ら火を点けた蝋燭を死神に差し出すなんて、そんなこと、お巫山戯や冗談でもやっちゃいけませんよ。
最初に申し上げましたでしょ?
アタシは召喚されたのだと。
『夜明け前』
「本気じゃないなら、それは恋じゃない。ただの遊び。本気のやつだけを恋って言うんだろ」
夜明け前のコンビニ。
イートインスペースでそんなことを言ってる子がいた。
そう、子供。まだ小学生くらいの。
話を聞いている相手はいない。
ハンズフリーで通話中とか?
それにしても凄いな、少年。
年齢=恋人いない歴の私には、とても含蓄あるお言葉に聞こえますですよ。
「まあ、おまえのソレが本気かどうかはどうでもいいんだけど」
そう言って手を伸ばした先に、うっすらと黒いモヤのような物が見えた。
それがだんだん濃くなって、人の形を取り始める。
「夜が明けたら帰るんだぞ」
そう言って少年は消えてしまった。
人型になったモヤが、ゆっくりとこちらに振り返る。
それは、私がまだ自分の気持ちにさえ気づいていなかった幼い頃、川で溺れた……
『カレンダー』
今では皆、スマートフォンのアプリでスケジュール管理をしているらしい。
我が家のように月毎に日付のみが書かれていて、余白に各自の予定を書き込むタイプのカレンダーは見ないそうだ。
スマホの電源すら入れ忘れる私には、逆に不便。
我が家のカレンダーは、各自が好き勝手に予定を書き込む。
「この日は帰りが遅いから夕飯はいらない」とか、「ここからここまで出張です」の横に「お土産は○○を買ってきて!」だとか、賑やかで楽しい。
朝起きてきて、居間に掛けられているそれをチラッと見るだけで、それぞれの予定がわかる。
まあ、独り暮らしの我が家で、私以外に誰が書き込んでいるのかは謎なんだけれど――
『喪失感』
それを見つけた時、胸の鼓動が早まるのを感じた。
ああ、これは世界に一つだけなのだ、私のためだけに存在しているのだ、と。
逸る気持ちを抑え、踊るように近づくと、両手でそっと拾い上げた。
かつて世界に何千何万と(一説によれば億とも)存在したという「本」。
なんでも無数に文字が書かれていて、様々な内容があり、実用的なものの他に架空の物語まであるという。
それが、いま、私の手に!
感無量になりながら、恐る恐る紙をめくる。この一枚一枚を、頁というらしい。
すっかり魅せられ、惹き込まれた後に残るのは、途轍もない喪失感。
読んでしまった。
読み終わってしまった。
どうしてもっと時間をかけなかったのだろう。
いや、そもそも、どうして読み始めてしまったのだろう。
始まりがあれば、終わりが来るのに。
胸を抑えて、閉じた本を見る。
その時、天啓が降りた。
《もう一度読めばいいのでは?》
天才か!